父親の想い

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父親の想い

 おばあちゃんの家で二週間あまりを過ごして、免許合宿に行く前々日に叶多の家に戻ってきた。家の前の花壇には、みんなで植えたコスモスが青々と芽を伸ばしている。  叶多の弟三人は、叔母さん一家の旅行についていっていて不在だ。 「ヒナタがこんなものをくれたんだ」  お茶の間で寛いでいると、叶多がチラシを手にやってきて、嬉しそうに見せてくれた。データサイエンスやビッグデータなどの文字が躍っている。 「進路コーナーで見つけたんだって。目についたから何となくもらってきたけど、みたいな感じで渡してきたけど、俺のためにわざわざ取ってきてくれたんだろうな」  肩が触れるくらい近くに座った叶多は、デレデレした顔でそう言った。当の陽咲はバイトに行っている。 「それで、カナタくんはどうするの?」  チラシを返して尋ねた。私が大学で借りてきた本は、コツコツと読み進めているようだ。 「数学は趣味でいいと思ってたんだけどね」  叶多はチラシを大事そうに撫でて脇に置いた。 「ゆっくり考えてみるよ」  彼が前へ踏み出せることを、心から願った。 「カナタくんがどんな道を選んでも、応援する」 「本当?書道教室を開くのもいいなと思い始めてたんだけど」 「いいじゃん。カナタくん習字上手だもんね」  習字部屋には、『夢』と書かれた叶多の見事な書道作品が貼られている。 「まあ、何をするにしても、ユメちゃんに見限られないようにしないとな、なんて」  まるでそれだけが心配だという言い方をするから、彼の足をはたいた。  翌日、叶多と一緒に父親の家に行った。  行くことはちゃんと伝えてあったのに、家を出る前に念のために電話を入れたら、父親はまだ寝ていたようでなかなか出なくてイライラした。 『おう、分かったぁ』  やっと出た電話でそう言ったくせに、家に着いてインターホンを三回鳴らしても、何の応答もなかった。ドアを引いてみると鍵がかかっていなくて、「お父さん?」と呼びかけながら中に入った。  すると、石鹸の匂いとともに、正面の洗面所に父親の裸が見えた。信じられないと思った。私たちが来ると分かっていながら、お風呂に入っていたのだ。 「おお、ユメ」  こちらに気づいて歩いてこようとする。 「ちょっと、裸のまま出て来ないで。服着てよ」  尖った声で押しとどめた時、父親の向こうに小さな子供が立っているのに気づいた。 「レンヤぁ、姉ちゃん来たぞぉ」  父親がそう声をかけている。蓮哉がいるなんて聞いてない。  腹を立てながらとりあえず叶多をリビングに案内した。おもちゃやらお絵描きやらで散らかり放題だ。一体いつからいるのだろう。 「良かったら召し上がってください」  蓮哉とともに服を着て現れた父親に、叶多がゼリーの詰め合わせを差し出した。 「おお」  父親はお礼も言わずに受け取って、テーブルの上にぞんざいに置いた。蓮哉が、無言で包装紙を勢いよく破って、中からゼリーを取り出そうとする。 「レンヤくん、それまだ冷えてないよ。お腹空いてるの?」  そう尋ねたら頷いたので、まずは朝食にせざるを得なくなった。  父親がチャーハンを作る横で聞いたところによると、一週間ほど前に恵梨香がやってきて蓮哉を置いていったのだそうだ。父親が仕事に行っている間は一人で留守番をさせているという。その辺に散らかっているおもちゃの大部分は、私が子供の時に遊んでいたものを引っ張り出してきたものらしい。呆れたことに、恵梨香がどこに行ったのかも、いつ戻ってくるのかも、父親は知らなかった。 「エリカちゃんって、自分の親には頼らないの?」  恵梨香の母親は、恵梨香の妊娠が分かった時、いとも簡単に娘を切り捨てた。自らもシングルマザーとして恵梨香を産んで育てたはずだけど、娘も同じ道を辿ろうとしていることに絶望したのか、一切の関わりを拒んだ。  自分の母親に追い出されるようにして家を出た恵梨香は、少しの間うちで暮らしていた。それは一ヶ月かそこらだったと思うけど、私には恵梨香のいる空間が耐えられなくて、その間ほとんど叶多の家に泊めてもらっていたと思う。  お母さんは何とか恵梨香を親の元に帰そうとしていた。それなのに、何がどうなったのか、恵梨香は私の父親が借りたアパートに移った。その後のことは知らない。 「あいつは親に捨てられたんだぁ。今さら頼らねぇよぉ」  父親はそう答えた。どこまで正確に把握しているかは不明だけど、恵梨香の性格を考えると確かに意地でも頼らないような気がした。  炊飯器にご飯が少ししか残っていなくて、チャーハンは一人分しかできなかった。それで、父親は作ったチャーハンを全て蓮哉にあげると、自分は叶多が持ってきたゼリーの蓋を開けた。 「今、カナタくんの家で暮らしてるの」  音を立ててゼリーを啜る父親にそう告げた。 「すみません、挨拶が遅くなって」  私の隣で叶多が頭を下げる。 「おう、そうか」  父親は口をモゴモゴさせながら軽い調子で応えた。またゼリーの容器の縁に口をつけて、ズルズル啜っている。 「おうそうかって。心配とかしないわけ?娘が男の家に住んでるって聞いて」  詰め寄った私を、父親は不思議そうな顔で見た。 「何で心配なんかすんだよぅ」 「何でって」  やっぱりこの人は娘のことなんかどうでも良いのだ。諦めて会話を終わらせようとした私に、父親は続けて言った。 「そいつぁお前に愛をくれんだろぉ。そいつんとこにいたらお前ぇ、幸せなんだろぉ」  面食らった。父親の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。 「俺に言ったもんなぁ?お前」  父親が絡むように叶多に問いかける。 「ユメを守るってよぉ。泣かせたらただじゃおかねぇって言ったらよぉ、はいって言ったもんなぁ、お前ぇ」  叶多が背筋を伸ばすのが分かった。 「その気持ちは今も変わらないです」  彼は真剣な声でそう答えた。 「ただ、あの頃とは状況が変わってしまって、もし一緒に生きていくことになったら、ユメさんには苦労させてしまうかもしれません」  こんな父親相手にも、誠実であろうとしてくれる。 「苦労って。そんなのぁ、ダメに決まってんだろぉ!」  父親が急に声を荒げた。 「ユメはよぅ、俺とマサミの大事な娘なんだよぉ!幸せになんなきゃダメなんだよぉ!」 「今さら父親ぶんないでよ」 「ユメちゃん」  叶多にテーブルの下で手を掴まれた。 「すみません、分かります。僕も迷っています」  叶多は、父親の言葉を受け入れて、言葉を続けた。 「三年前に両親を亡くしました。妹が一人と弟が三人いて、一番下の弟はまだ五歳です。僕は、兄として彼らが独り立ちするまで見守りたいと思っています。だから、こんな人生にユメさんを巻きこんで良いものか、迷っていて」  そんな迷いは不要だと伝えたはずなのに、まだそんなことを考えていたのか。反論しようとしたら、叶多は私の手の甲を優しく撫でた。 「難しいことは分かんねぇけどよぅ」  父親が口癖のようなセリフを口にする。 「それだとユメが不幸になんのかよぉ?ああ?俺と違ってお前は頭が良さそうだからよぉ、何とかすんじゃねぇのかよぉ」  苛立っているような声でさらに言い立てる。 「俺ぁ馬鹿だからよぅ、ユメのこと怒らしてばっかでぇ、ここにいたってユメはちっとも楽しそうじゃねぇや。お前はうまくやれんだろぉ。だからユメはお前んところに行ったんだろぉ」 「そうだよ」  たまらなくなって口を挟んだ。 「お父さんに判断してもらわなくたって、わたしはカナタくんと一緒にいるのが幸せなの。こんなところにいるよりずっと幸せなの」  父親がこちらに顔を向けた。眉間から皺が消えて、眉が下がるのが分かった。 「そんならいいじゃねぇかよぅ。何をごちゃごちゃ言ってんだよぉ」  私はまだ信じなかった。この人の中にそんな親らしい心があることを。 「マサミはなぁ、初めて優しくしてくれた人間でよぉ」  いきなり語り出した父親に、感情が迷子になりそうだ。 「店で子供がケーキをじっと見ててよぉ、可哀想で一つやったら店長に怒られてよぉ。そん時ぃ、マサミが助けてくれてよぉ。代わりに金ぇ払ってくれてよぉ」  そんな言葉足らずな説明に、叶多は頷いて理解を示した。  その馴れ初めはお母さんからも聞いたことがあった。父親が働いていたケーキ屋の前に、見るからにひもじそうな子供が立っていたのだという。お母さんが声をかけようか迷っていると、父親がその子供にケーキを一つ恵んだのだそうだ。店長に見咎められて責められている父親が不憫になって、そのケーキをお母さんが買ったことにしたのだと言っていた。 「俺ぇ、人に優しくされたの初めてでよぅ、すっかり惚れちまってよぉ。俺が作ったケーキ、おいしいつって食ってくれてぇ、ますます好きになってよぉ。そんでぇ、ユメが生まれた」  だいぶ端折って、父親は私が生まれた経緯を話した。端折ったつもりもないのかもしれない。そこに至るまでにお母さんがどれだけ苦悩したか、父親は知らないのだろう。 「俺ぁ幸せだったよ。ユメに笑いかけられただけでよぉ、生きてて良かったって思えてよぉ。んでよぉ、周りの人間にも分けてやりてぇと思ったんだけどよぉ、何でか分かんねぇけど、マサミぃ、怒ってよぉ。怒らんねぇように頑張ったんだけどよぉ、俺ぇ馬鹿だから、何やっても怒られてよぉ。マサミのことぉ、幸せにしてやれなくてよぉ」  この人の中にお母さんを幸せにしたいという気持ちがあったことを、今初めて知った。その一方で、お母さんの言葉は全く届いていなかったのだということも。 「無理なんだなぁ。みんなを幸せにするなんてこたぁよぉ。一番大事な人間も幸せにしてやれねぇんだもんなぁ」  父親はそう呟いて、何が言いたかったのかをまとめることなく、唐突に話を終えた。  次に言葉を発したのは叶多だった。 「難しいですよね、誰かを幸せにするのは。それが大事な人だとなおさら」  父親のまとまりのない話に、応えようとしてくれているのらしい。 「僕も、親が死んだ後、妹たちを幸せにしたいと思ったけど、いくら心を注いでも、かえって不幸になっていくようで」  せっかく叶多が応えようとしてくれているのに、父親は興味なさそうにゼリーの空き容器をスプーンでカラカラさせている。 「どんなに大事に思っていても、それだけでは足りないのだと思い知りました。妹たちには、受け取ることだけじゃなくて与えることも、僕自身が幸福であることも、必要だったんだなって」  叶多は、目も合わせない父親に向かって、辛抱強く話しかけ続けている。 「そのことを僕はユメさんに教えてもらったんです。だから、お父さんにも感謝しています。ユメさんの素敵な生き方は、お父さんから受け継がれたものですよね」  父親が、ハッとしたように顔を上げた。 「俺に感謝してるって言ったかぁ?」 「はい。感謝しています」  叶多が大きく頷いて繰り返すと、父親は「そうかぁ。そりゃ良かった。ガハハ」と、品のない笑い声をあげた。  せっかく叶多が真剣に向き合ってくれているのに、父親には何も伝わっていない。そう思って私は心底失望した。 「とにかく、エリカちゃんに連絡して、レンヤくんのことどうするか話し合ってよ。一人で留守番させるなんてありえないからね」  早口で話を切り上げた。これ以上ここにいてもしょうがない。 「レンヤくん」  叶多が不意に蓮哉に声をかけた。 「良かったら、お父さんが仕事に行ってる間、俺の家に遊びに来ない?今はちょっと旅行に行っちゃってるけど、あさってには弟たちも帰ってくる。レンヤくんと歳が近いから、一緒に遊べるよ」  とんでもないと思って首を横に振った。私が家にいるのならまだしも、明日から免許合宿でいないのだ。そこまで叶多に迷惑をかけるわけにはいかない。 「おお、そいつぁいいなぁ」  父親が呑気に賛同する。 「なあ、レンヤぁ。俺が仕事行ってる間ぁ、こいつんちに行っとけ」 「待って。簡単にそんなこと頼まないでよ。お父さんとエリカちゃんの問題なんだから、そっちで解決して」 「ユメちゃん」  叶多が宥めるように私の名前を呼んだ。 「そんなに俺に気を遣わなくても大丈夫だよ。レンヤくんはユメちゃんの弟なんだから、俺も無関係じゃないでしょ」  諭すようにそう言って、父親に向き直った。 「その代わりと言うわけではないのですが、お父さんに一つご相談があって」  その言葉に父親が反応するのが分かった。人に頼られるのが大好きなのだ。 「八月の最後の日曜日が僕の一番下の弟の誕生日でして、もしも可能でしたら、お父さんにケーキを作っていただけたりはしないでしょうか。もちろん材料費はこちらで持ちますし、無理でしたら全然、忘れてください」 「カナタくん」  そんな大事なことを父親に頼むなんてありえない。 「おう、いいぞ」  思った通り父親は二つ返事で引き受けた。仕事のシフトも何も確認せずに。 「安請け合いしないでよ。仕事とか入ってないわけ?だいたい、ケーキ作ったって車持ってないんだから運べないでしょ」 「ああ、仕事なぁ。八月の最後の日曜つったかぁ?」  父親は焦る様子もなく、冷蔵庫の前に行ってシフト表を確認している。 「おう、空いてる空いてる」  そう軽い調子で答えた。 「にしたって運ぶのが」  何も考えていない父親に、苛立ちが募る一方だ。 「それなんですけど、」  叶多が、落ち着いた声で提案を持ちかける。 「もし良かったら、うちの台所を使ってください。人の家の台所なんて使いにくいかもしれないですが、母もよくケーキを焼いていたので、基本的な道具は一通り揃っていると思います」 「おう、そうするか」  話は決まり、と言うように父親が簡単に頷く。 「本当に大丈夫なの?急に仕事が入ったり他の用事ができたりしても、断れるの?」  全く信用できない。 「全然、その時はそちらを優先していただいて。近所のケーキ屋で買うこともできますので」  叶多がフォローを入れる。 「おう。大丈夫だぁ」  父親が能天気に言った。  一時間ほどの滞在で父親の家を後にした。来た時よりも気温が上がっていて、すぐに全身から汗が噴き出す。 「お父さんにケーキなんか。コウタくんの大事な誕生日なのに」  叶多に日傘を差しかけながら、咎めた。 「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」  私の手から日傘を取って、叶多がのんびりと言う。 「大丈夫じゃないよ。話してて分かったでしょ?何も考えてないんだよ、あの人。向き合うなんてやっぱり無理だった」 「そんなことないと思うよ。お父さんがユメちゃんのことを大事に思ってるの、よく伝わってきた」  反論したかったけどやめておいた。きっと私のために気休めを言ってくれているのだ。 「レンヤくんのことだって。カナタくんがそこまでしてくれる必要ないよ」  帰り際に住所を伝えていたから、父親はきっと本気にして明日からでも蓮哉を預けに来るだろう。 「ユメちゃんがそれを言うの?俺の兄弟にはすごく良くしてくれるのに」 「それは、カナタくんの大事な兄弟だから」  私はここで告白しなければならない。 「正直言って、わたし、レンヤくんのこと全然可愛いと思えないんだ」  恵梨香が妊娠した時、警察が家に来た。未成年を妊娠させたことで、父親が罪に問われる可能性が高かったからだ。その時、私も父親のことを訊かれた。当時の私はまだ、父親のした行為の非常識さをきちんとは理解できていなかったけど、警官の口ぶりから、父親がとても恥ずかしいことをしたのだと分かった。  蓮哉を見る度に、あの時の、自分も同類に見られているような、恥ずかしくてたまらない気持ちを思い出して、目を背けたくなるのだ。蓮哉に罪はないと頭では分かっていても。 「俺は、今日初めて会ったけど、レンヤくんのことを愛おしく感じたよ」  私の告白を受け入れるように相槌を打った後で、叶多は言った。 「ユメちゃんもこんな気持ちでコウタたちと接してくれてるのかなって思って、嬉しくなったよ」  照りつける日差しの下で、彼はこちらを見て微笑んだ。 「俺がレンヤくんにしてあげたいんだ。だから、ユメちゃんは何も心配しなくて大丈夫だよ」  優しい眼差しで見つめられて、自分の余裕のなさがほとほと嫌になった。元はといえば、私が父親と向き合いたいと言ったから、一緒に来てくれたのに。 「そんな顔しないで。それよりさ、コウタのプレゼントを買いにいくの付き合ってくれない?ていうか、せっかく二人きりだしデートしようよ」  ぐいぐいと密着してくる。ありがとう、と素直に言えずに、無言で頷いた。 「でも、暑いからくっつかないで。傘も返して」  日傘が小さすぎて、私の上しか日差しが遮られていない。叶多の手から日傘を奪い取った。 「えー、くっつきたい」  攻防を繰り広げているうちに追いかけっこみたいになって、駅に着く頃には二人とも汗だくになっていた。  電車で数駅揺られてショッピングモールに行った。幸多の誕生日プレゼントを選んで、レストランで昼食を取った後、叶多と映画を見た。  それはよくある冒険ものだったけど、映画の中で、親友の死に責任を感じて立ち直れずにいる主人公を、仲間が『悔やんでいても始まらない。僕らは前へ進むしかないんだ』と励ますシーンがあって、ふと宮澤の言葉を思い出した。  宮澤は私に、お母さんが死んだのは私のせいではないと言った。余計な罪悪感を抱かずに自分の内面と向き合えと勇気づけてくれた。  その時、長年の疑問の答えが、急に胸に落ちてきた。解けてしまえば、なぜ分からなかったのだろうと思うくらい、それは単純なことだった。  お母さんの葬儀で父親を見て笑いたくなったのは、そう、ひどく安心したからだ。  お母さんが死んだのは自分のせいだと思っていた。お母さんは、父親と暮らすのはうんざりだと言った私のために実家に戻って、その途端に病気になって急激に弱ってしまった。だから、お母さんを父親から引き離してしまったことに、ずっと罪悪感を抱いていた。  それと同時に、怖くてたまらなかった。お前が殺したのだ。そう誰かに責められることを恐れていた。  だから、おばあちゃんが父親を責めるのを見て、ああ良かった、お父さんが全部引き受けてくれるんだと、お父さんが全部悪かったことにしてくれるんだと、心の底から安心したのだ。私は、父親を悪者にすることで、自分の心を守っていたのだった。  どうして私の心は無意識にそんな鎧をつくったのか、なぜ今その鎧が見えるようになったのか、疑問が広がって、私は心の仕組みについてもっと知りたくなった。  映画を見た後は、半券を使ってボーリングをした。叶多も初めてで、二人してひどいスコアだったけど、自分でも訳が分からないくらい楽しくて、ずっと笑っていた。  夕方、バイト終わりの陽咲が合流して、手芸洋品店に行った。私にワンピースを作ってくれるという。膨大な種類の布の中から、陽咲は淡い水色のリネン生地のものを選んだ。  それから、陽咲のチョイスで韓国料理店に入った。どの料理もかなり辛くて、それを「全然大丈夫だし」と顔を真っ赤にしながら頑張って食べている陽咲が可愛かった。  チゲ鍋をつつきながら、幸多の誕生日会について相談した。幸多が保育園の友達を呼んでバーベキューをしたいと言っているらしく、人手が要るというので、千尋を誘ってみることにした。  帰り道、陽咲がクレープを食べたいと言い出して、三人でクレープ屋に入った。前に陽咲と二人で行った店だ。新たちが生まれる前に家族四人でよく来ていたのだそうだ。そんな他愛もないことを知れるのが、嬉しかった。  家に帰ったらすぐに、陽咲の部屋で採寸された。 「あたしは多分、車の免許は取らない」  私の満腹のお腹にメジャーを巻きつけながら陽咲は言った。明日から行く免許合宿の話の流れだ。 「被害者になるのもつらいけど、加害者になるのはもっとつらいと思うから」  その頭を撫でた。動かないでと怒られるかと思ったけど、陽咲はされるままになっている。 「どうしてもの時は、運転できるように頑張るね」  サラサラの黒髪が手の平に心地良い。 「もしかしてユメちゃんが免許取るのって」  こちらを見上げておずおずと尋ねてくる陽咲に、笑いかけた。 「それだけじゃないけど、取っといた方がいいかなって」  私はもう、叶多たちのいない未来を、思い描くことができなかった。  合宿にはマチョコがいて、大学に置いてあったパンフレットから申しこんだとはいえ、その偶然に驚いた。  マチョコは相変わらずの塩対応だったけど、話しかければ応えてくれた。山岳部の活動で必要だから、と免許を取る理由を教えてくれた。  この夏休みはまだ吉木と会っていないと言う。それで、吉木と一緒に幸多の誕生日会に来ないかと誘ってみた。マチョコは、「何であたしが」みたいな反応だったけど、翌日になって、「ジュンペーが空いてるって言うから」と渋々参加の意を表明してきた。そして、不承不承といった様子で私と連絡先を交換してくれた。  何とかスケジュール通りに免許を取得して、二週間ぶりに叶多の家に戻ると、蓮哉がすっかり馴染んでいた。こんな風に笑う子だったんだなと知って、初めて可愛いと思えた。  父親に対する実采や幸多の懐きっぷりもすごかった。父親は、蓮哉を迎えにくると、家に上がりこんでしばらく子供たちと床を転げ回って遊んだ後、蓮哉を連れて満足そうに帰っていくのだった。  いつもは末っ子で甘えている幸多が、蓮哉に対してはちゃんとお兄ちゃんをしていて、それを見るのも面白かった。私が知らなかっただけで、保育園では下の子の面倒をよく見ているのらしい。  実采は、会わない間に上の歯が抜けていて、ご飯が食べにくいと文句を言っている。かと思えば、幸多の歯がぐらぐらしているのを見て、まだ抜けちゃダメ、と謎の牽制をしている。実采と幸多の張り合いは当分、あるいは永遠に続くのだろう。それはもはや、愛おしい日常の一部である。  新は、イジメのことを叶多に話したと私に教えてくれた。夏休みに入る前、新と二人になった時に、イジメについて少し詳しく聞かせてもらった。でも私は、宮澤の助言に従って、新の気持ちに耳を傾けただけだった。新は自分の力で前へ進んだ。耳の上を刈り上げた髪型が涼しげで、私はまた一つ、子供の持つ強さを学ぶのだった。
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