優しさの芽

1/1

23人が本棚に入れています
本棚に追加
/20ページ

優しさの芽

 翌朝目を覚ますと、何もかもが億劫になっていた。  大学に行くのをやめておばあちゃんのところに戻ろうかと考えながら、ノロノロと新しいスーツに袖を通す。その時、部屋のドアがノックもなく開いて、父親がズカズカと入ってきた。  昔からこうだ。この人は、デリカシーどころか、普通の感覚全般を持ち合わせていない。悪い人ではないのよ、とお母さんはよく言ったけど、それ以前に常識がなさすぎて、善悪を測ることなど不可能だ。 「今日ぉ、あれよぉ、お前ぇ、入学式だろぉ」  いつものだらしない口調で尋ねてくる。この人に入学式の日にちを教えた覚えはない。おそらく私がいない間に部屋に入って書類を見たのだろう。そう思って激しい憤りを感じるけれど、父親に何を言っても無駄だということを、私はお母さんの長年にわたる闘いから嫌というほど学んでいた。 「俺ぇ、行こうかぁ?」  娘に嫌われたり疎まれたりしているとは微塵も考えていない顔だ。 「来なくていいよ」  そう断ると、 「大学生だもんなぁ。入学式に親は行かねぇかぁ」 と、一人で納得したようだった。  もしかしたら仕事をわざわざ休みにしたのかもしれない。何の仕事をしているのか知らないけど、シフト制のようで父親の勤務日は変則的だ。 「岸本優芽、なぁ」  無精髭の生えた顎をボリボリと掻きながら、父親は机の上の封筒を無造作に手に取って、宛名にある私の名前を音読した。触らないでと言いたいのを堪えた。大学からの重要な案内が中に入っている。 「優しさの芽かぁ」  自分が名付け親のくせに、今初めて知ったかのようにしみじみと呟いている。優しい世界を始められる人間であれ。父親は幼い私にそう繰り返したものだった。 「用がないんだったら出てって」  私の強い口調に、父親はあっさりと踵を返した。部屋を出て行く前に、 「大学行くなんてよぉ、ユメはマサミに似てぇ、頭いいんだなぁ」 と、お母さんの名前を口にした。  私は別に、大学に行きたかったわけではなかった。進学することを選んだのは、お母さんやおばあちゃんが私にそれを望んだのと、もう一つ。ここを逃したらもう二度と、この人と暮らすことはないだろうと思ったからだ。  私はただ、知りたかった。  お母さんの葬儀に現れた父親は、おばあちゃんに中に入れてもらえなくて、外で声を上げて泣いていた。お母さんの名前を何度も何度も呼んで、愛してた、愛してたんだ、と叫び続けた。  その時私は、おばあちゃんの腕の中で、笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。いい気味だと思ったわけではなく、なじりたかったのでもなく、憤りとも憐憫とも悲しみとも違う、ざわざわとした感情が、ともすれば喉を突き上げて、笑い声に変わりそうだった。それ以来、私はうまく笑うことができなくなった。  父親と過ごしたら分かるかもしれないと思った。あの時の感情の正体も、父親が本当にお母さんを愛していたのかも、お母さんがなぜボロボロになるまで父親を見限らなかったのかも。  それは自分にとって、とても重要なことのように思えた。  だから私は、おばあちゃんの反対を振り切って、父親のもとに戻ることに決めた。家の近くの大学を選び、父親と、そして自分の感情と向き合うことに決めた。はずだった。  叶多と再会して一夜が明けた今は、全てがどうでも良いような気分だった。自分が無意識のうちに彼をかなり当てにしていたことに、今頃になって気づかされている。  ベッドに腰を下ろして放心していると、父親が開けっ放しにしていったドアから、ラーメン特有の脂っぽいにおいがしてきた。まさかと思ったのと同時くらいに、父親の呼ぶ声がした。  一階に降りると、予想通りテーブルの上に大きな丼が一つ置かれていて、父親がニヤニヤと見てきた。娘が喜ぶと信じて疑わない顔だ。突き返すのも面倒で、スーツの上着を脱いで油まみれの麺を啜った。  すっかり胃もたれした身体を引きずって入学式の会場へ向かいながら、ますます憂鬱な気分になった。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加