入学式

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入学式

 見知った顔にぶつかったのは、学生証を受け取って帰ろうとした時だった。  その男は、相変わらず男女混合の集団の中にいて、昔と違うところといえば、着崩しているのが制服からスーツに変わったことと、鬱陶しい髪の色が黒から金色に変わったことくらいだった。 「ゆーちん?」  かつてこの男だけが使っていた私のあだ名だ。 「やべー、ゆーちんだろ?何?ゆーちんもここなの?てゆーか、いつ戻ってきたんよ?」  私の顔をまじまじと見て、確証を得たように馴れ馴れしく話しかけてくる。 「うん、心理学部。つい最近戻ってきて」  一方の私は、この男の名前をすぐには思い出せずにいる。チャラ木と影で呼んでいたから、木が付く名前だったと思うけど。 「ジュンペーの知り合い?」  派手なメイクをした女が、チャラ木と同じ色の髪を指で弄りながら尋ねる。 「そー、小中の同級生でさー。中二ん時に転校してって、こんなとこで会うとは思わねーからびっくりしたわ」  へぇ、と興味なさそうな相槌が周りで起きる。 「じゃあ急ぐから」  立ち去る口実でそう言ったら、チャラ木が肩を組んできた。この遠慮のなさが昔から苦手だった。 「ゆーちん、心理学部なんだ。すげーね」  何がだ、と心の中でツッコむ。適当なのも相変わらずだ。この男は言動の全てが軽い。 「俺、社会学部。んで、こいつとこいつも社会で、あの子が経済で、こっちが政治で、ん?お前どこだっけ?」  訊いてもないのに紹介してきた。名前も知らない人たちの学部を聞かされたって困る。  どうやらこの集団は、チャラ木の高校時代の同級生と、その辺で適当に声をかけたメンツで構成されているのらしい。幸いというべきか、私と同じ心理学部の人はいないようだ。  よく分からないノリが始まって、さっさとこの場を離れたいのに、チャラ木に肩を組まれたままで身動きが取れない。恐ろしいことに、チャラ木をジュンペーと呼んでいる女にさっきから睨まれているような気がする。 「わ、わたし、本当に急ぐから」  チャラ木の腕を強引にどけようとしたら、さらに強く組み寄せられた。 「まだいーだろ。昼、その辺で食ってこーぜ」 「友達と行けばいいじゃん」 「何だよ、つれねーな。俺、ゆーちんのこと割と好きだったんだぜ?」  聞き流した。まともに取り合うだけ無駄だ。 「そーいやゆーちん知ってる?長谷川が高校中退したの」 「え?カナタくんが?」  驚いてチャラ木の方を見ると、至近距離でニヤリと笑いかけられた。 「詳しく聞きてー?一緒に来たら教えてあげっけどな?」  そんな言葉で釣られては、ついていかないわけにはいかなくなった。  会場の近くの飲食店は、入学式帰りの新入生やその家族でどこも混んでいた。チャラ木たちは、しばらく歩いた後、どこにでもあるファストフード店に入った。大学生になったのがそんなに嬉しいのか、彼らは学生証の写真とかネクタイの結び方とかいった小さなことで延々と盛り上がっている。チャラ木は私にもしつこく話を振ってきたけど、気のない返事でやり過ごした。収穫といえば、この男の本名が吉木であることを思い出したことくらいだった。  一時間ほどしてやっと解散の流れになった。ゾロゾロと駅まで歩いて、改札やホームで散っていって、電車でやっと吉木と二人になった。マチョコと『チョ』にアクセントを付けて呼ばれていた金髪の女が、最後まで私のことを睨みつけていた。 「何か変わったな、ゆーちん。昔はもっと感じ良かったじゃん」  吉木が電車のつり革をブラブラさせながら言った。 「あんなつまんなそうにしてたら空気ぶち壊しじゃんよ」  そう非難してくる。呆れて言い返す気にもならない。 「あ、もしかして怒ってる?急いでるって言ってたもんな。ごめんて。さくっと食って出るつもりだったんだけど、あいつらがさぁ」  積極的に盛り上げていた張本人の癖に、この男は悪びれない。 「別に怒ってないよ」  ここで嫌みを言っても始まらないので、吉木の弁明を受け流した。急いでいるというのは嘘だし。 「それより、カナタくんが高校中退したってどういうこと?」  それさえ聞ければ、後はどうだっていい。 「あー、やっぱし気になっちゃう感じ?」  吉木が揶揄うようにニヤついた。まだもったいつける気かと思って睨みつけたけど、全く意に介していないようだ。それどころかさらに顔を近づけてくるから、吊り革一個分吉木から離れた。 「すげー仲良かったもんな。クラス違ったのにどこで接点あったんよ?」  あくまで話の主導権を握るつもりらしい。まあいい。降りる駅はまだ先だ。 「接点って言うほどのことはなかったんだけどーー」  叶多と初めて話した時のことを、鮮明に思い出すことができる。  中学に上がったばかりの頃、私は昼休みを保健室で寝て過ごしていた。毎日寝不足で、給食の後などはとても起きていられなかったのだ。  その日は午後の授業が始まってからも起きることができなかった。校庭で行われている体育の授業を遠くに聞きながら眠りこんでいた私は、五時間目が終わる頃、保健室の戸がカラカラと開けられる音で目を覚ました。ベッドを仕切るカーテンに映る人影は、しばらく保健室の中をウロウロしていたかと思うと、諦めたように長椅子に座った。そこで私は、保健室の先生が少しの間不在にすると言っていたのを思い出した。  カーテンをそっとめくると、上履きのつま先が見えた。その色で、自分と同じ一年生だと分かった。さらにカーテンをめくりあげると、体操服を着た小柄な生徒の横顔が見えた。 『どうしたの?』  そう声をかけたら驚かせてしまったようで、その子はビクッと肩を跳ねさせた。それが、叶多との出会いだった。  叶多は私に、体育の授業で鉄棒に頭をぶつけてしまって、一応保健室で診てもらえと言われたから来たのだと説明した。まだ声変わりをしていなくて、男の子にしては長めの髪と華奢な身体つきから、私は叶多を女の子だと勘違いしてしまった。その中学校は体操服が男女共通だったから、男女を見分ける術がなかったのだ。 『ハセガワ、カナタ、ちゃん?』  胸に書かれた名前を見てそう呼んだ私に、叶多はなぜか訂正しなかった。 「きっかけは、わたしがカナタくんのことを女の子だと勘違いしちゃったことだったかな」  そう答えたら、吉木はおかしそうに笑った。 「へぇ、あいつ女っぽかったんだ」 「わたしも寝ぼけてたから」  叶多をフォローするつもりでそう付け足したけど、正直なところ、寝ぼけていなくても男の子だと分からなかったかもしれない。知り合った頃の叶多は、本当に可愛くて、女の子みたいだった。 「そんで?どーやって仲良くなったんよ?」  しつこく訊いてくる。さっき吉木との間に空けた距離も、いつの間にか詰められている。 「廊下で会った時とかに話すようになって、家にも何回か遊びに行ってるうちに、自然とって感じ」  掘り下げられるのも煩わしくて、適当にそう説明したけど、叶多に二回目に会った時のこともよく覚えている。  保健室で初めて話した日からしばらく経って、学校の昇降口でばったり会ったのだ。学ラン姿の叶多を見た時の衝撃は忘れられない。一瞬、何か事情があって男の制服を着ているのかと思ったほどだ。  自分の勘違いに気づいてひたすら謝る私に、叶多は家に遊びに来ないかと言ってきた。  その時はずいぶんと唐突な誘いのように感じたけど、彼にとって友達を家に呼ぶことのハードルが低いことはすぐに分かった。彼の家にはいつも子供がたくさんいた。ただでさえ兄弟が多いのに、叶多のお母さんが近所の子供たちに習字を教える傍らケーキやクッキーを焼いていたから、習字教室の生徒や匂いにつられた叶多たち兄弟の友達が、しょっちゅう出入りしていたのだ。  自分の家にはない陽だまりのような空間に、私もいつしか、彼の家に入り浸るようになっていったのだった。 「ふーん」  私の当り障りのない答えに、吉木はつまらなさそうに相槌を打った。 「そんな仲良かったのに、転校した後は連絡取ってなかったんだな」  そのもっともな指摘に、「まあね」と短く返した。  私が転校したのは、中学三年生になる春のことだった。お母さんと一緒に母方のおばあちゃんの家に移ったのだ。  叶多は毎日のようにメールをくれた。でも、当時の私は、新しい環境に慣れるのに必死だったり、体調を崩したお母さんのことが心配だったり、何より、自分の父親がしでかしたことが恥ずかしくて、彼とのやり取りに積極的になれなかった。  最初のうちはメールが来れば返していたけど、返す頻度が減って、返したとしてもごく短い言葉になって、しまいには全く返さなくなった。それでも叶多からの連絡はしばらく続いていたけど、高校に上がって半年ほどが経った十月の中頃を最後に、完全に途絶えた。彼からの最後のメールには、今度私のところに遊びにいくと書かれていた。 「あいつ、親が事故で死んだらしくてさ」  何の前置きもなく、吉木が本題に入った。 「え、死んだって……え?」  悪い冗談かと思った。 「違う高校行ったから俺も詳しいことは知んねーけどさ、父親も母親もいっぺんにって」  吉木にしては珍しく深刻な口ぶりに、信じたくないのにジワジワと現実味が増していって、鳥肌が立つのを感じる。 「あいつ、兄弟多いんだろ?そいつらのこと養わなきゃなんねーつって、高校辞めて働いてんだと」  私はいよいよ言葉を失った。  昨日、叶多は一言もそんなことを言わなかった。あの優しいお父さんと、愛情に溢れたお母さんがもういないなんて、匂わせることすらしなかった。ただ、私ともう関わりたくないみたいに、すっかりよそよそしかった。  私がメールを返さなかったから嫌われてしまったのか、あるいは私の父親のことを知って引かれたのかと思っていたけど。 「それって、いつ頃のこと?」 「いつだろ……高一の秋とか冬とかそんぐらいじゃね」  叶多からの最後のメールの時期とも一致する。むくむくと、焦燥にも似た罪悪感が湧き起こった。 「それじゃあ、カナタくんは今も働いてるの?」 「じゃね?詳しいことは知んねーけどよ」 「でも、昨日の夕方カナタくんに会ったけど、全然、仕事帰りって感じじゃなかったけどな……」  叶多のラフな格好と、幸多を連れていたことを思い出してそう呟く。 「会ったのかよ」  吉木は露骨に面倒くさそうな顔をした。 「休みだったんじゃね?知らねーけど」  そう適当に片付けて、また私の肩を組んできた。 「ゆーちんさぁ、昔は仲良かったかもしんねーけど、長谷川のことはもう忘れなって」  耳元でそう囁いてくる。 「あいつはもう俺らとは違げーんだよ。会ったのに何も教えてくんなかったんだろ?それって、向こうも仲良くする気はねーってことだろ」  痛いところを突かれてムカッとした。私の身体がこわばったのが分かったのか、吉木は私の顔を覗きこんできた。 「そんなことよりさ、せっかく大学一緒だし、いっぱい楽しいことしようぜ。な。月曜はゆーちんのとこもガイダンスだろ?何時の電車乗ってく?あ、連絡先教えて。つーか、俺たち付き合っちゃう?」  一転して軽率な口調になっている。怒りを通り越して心配になった。 「誰にでもそういうこと言うの、やめときなよ」  吉木のことは苦手だけど、昔からの知り合いとしての情はある。 「そういうのは、本当に好きな子だけにしとかないとさ、いつか後悔するよ」  自分の父親と重なった。あの人もある意味、誰にでもいい顔をした結果、家庭を壊した。  吉木は、乾いた笑い声を漏らして、私の肩から腕をどけた。 「優しいのは変わらないね、ゆーちん」  この男がそれを優しさだと受け取ったのは、少し意外だった。 「ゆーちんはどーなの?ホントに好きな奴に好きって言える?」  気まずくて軽口を叩いているのかと思って吉木を見ると、思いのほか真剣な顔をしていた。 「ゆーちんは、長谷川のこと好きだった?」  電車のアナウンスが降りる駅に到着することを告げている。  答えないままやり過ごそうかと思ったけど、吉木のまっすぐな視線がうやむやにすることを許してくれなくて、「忘れた」と小さく答えた。 「否定しないんだ」  吉木がニヤニヤしてくる。 「肯定もしてないよ」  私の方が気まずくなって、俯いて言い返した。  分からない、というのが正直なところだった。  叶多のことを異性として意識したことが、全くなかったわけではない。雨の中、私を家まで送ってくれたことがあった。家に帰りたくないと弱音を吐いた私の手を、彼はギュッと握ってくれた。その時、心が大きく揺れ動くのを感じた。  でも、それはほんの一瞬のことで、それよりも家の問題の方が重くて、私はその気持ちについて深く考えなかった。私にとって叶多は、恋愛の対象というよりも、かけがえのない大切な友達だった。  電車を降りてからは、吉木が中学時代の同級生の近況について話すのを聞き流しながら歩いて、分かれ道で別れた。
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