叶多の妹弟

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叶多の妹弟

 家に帰ると、玄関に私のものではない女物の靴が置かれていた。その横に子供の靴が並んでいて、私は来客が誰なのかを理解した。  引き返そうとした時、「おかえり」という女の声に捕まった。リビングの方から小さな男の子が現れて、何度も後ろを振り返りながらこちらに歩いてくる。 「こんにちは、レンヤくん」  観念して、腹違いの弟に挨拶した。  蓮哉はもじもじして何も言わず、遅れてやってきた母親の後ろに隠れてしまった。 「大きくなったね、レンヤくん」  恵梨香にそう声をかけて、昨日叶多にも幸多のことで同じ言葉をかけたのを思い出した。でも、そこに抱く感情は全く違う。幸多の成長は純粋に微笑ましく思えたけど、蓮哉の成長にはゾッとするものを感じてしまう。この子に罪はないと、頭では分かっているけれど。 「ホント。もうすぐ四歳だよ」  恵梨香は母親の顔をして答えた。 「どっか行ってようか?わたし邪魔でしょ?」  ドアを指差して尋ねる。むしろ行かせてほしいと願った。 「ううん、もう帰るところだから。ユメちゃんを待ってたの。こっち戻ってきたんだね」 「ああ、うん。大学近いから」 「今日入学式だったんでしょ?おめでとう」  全く心の込もっていない声だ。 「ありがとう。エリカちゃんはお父さんに何か用事だったの?」  用が済んだのならさっさと帰ってほしかった。私たちの間に交わすべき言葉など、何一つない。 「まあそんなところ。ところで、ユメちゃんってここにタダで住んでるの?」  私の問いへの答えをはぐらかして、恵梨香が逆に尋ねてくる。意図が見えなくて戸惑った。 「タダで、って?」 「だって居候してるわけでしょ?家賃を入れるべきじゃない?」  本気で言っているのだろうか。 「ここ、わたしの家だし……」 「でもマサミさんについていったわけじゃない?マサミさんが死んだからって、のこのこ戻ってきて住まわせてもらって当然って顔するのは違くない?」  自分の主張が正しいと信じこんでいる様子だ。そもそも、恵梨香に口を出される筋合いはない。 「何その顔。ヒロアキさんの代わりに言ってあげてるんだからね」 「お父さんがそう言ってるの?」 「あの人は何も考えてないよ。ほら、お金のこととか無頓着でしょ。でもそれじゃああたしは困るの。レンヤにこれからお金がかかるんだから」  養育費のことを心配しているのかと納得した。 「じゃああたしは帰るけど、ただでさえヒロアキさんの稼ぎは少ないんだから、余計な買い物とかしないようにユメちゃんもしっかり見張ってよ。ここに住むんだったら、ちゃんと家賃入れなさいね。ヒロアキさんに何か買わせたりなんかしたら承知しないから。レンヤ、帰るよ」  言いたいことだけ言って、恵梨香は蓮哉を連れて帰っていった。  どっと疲れて、ぐったりしながらリビングに行くと、父親がソファーで寛いでいた。私に気づいて、「おう」と手を挙げる。テレビでサッカーの試合をやっているようだ。 「エリカちゃん何の用だったの?」  娘が恵梨香から理不尽なことを言われている時に呑気にテレビを見ていたのかと思うと腹が立って、声が尖った。 「ああ、今月分の金払うの待ってくれっつったらよぉ、待てねぇっつうからよぉ、ユメの部屋にあった十万、渡しといたぞぉ」 「……は?」  耳を疑った。 「え、嘘でしょ?」  確かに机の引き出しに十万円の現金が入った封筒を置いていた。それは、おばあちゃんが持たせてくれたお金だった。困ったらいつでも戻っておいでと、そう言って。 「嘘じゃねぇよぉ。引き出しに入ってたからよぉ」 「だからって、何で勝手に盗るわけ!?」  自分が馬鹿だったのだと思った。お母さんがこの人にお金や物を盗られて怒ったり悲しんでいる姿を何度も見てきたのに、さすがに娘のものは盗らないだろうと甘く考えていた。 「怒るなよぉ」  こちらの怒りを逆撫でするようなトーンで父親が言う。これも何度も聞いた。その度にお母さんが逆上していたのを思い出して、私はかえって冷静になった。 「しょうがねぇだろぉ。エリカがよぉ、金がなくてレンヤに食わせるもんも着せるもんもねえっつーからよぉ。可哀想だろぉ」  可哀想というのが、父親の行動原理なのだ。 「あげちゃったものはもういいけど、お金はお父さんが返して」  怒りを押し殺して、淡々とそう要求した。 「いやぁ、そんなこと言ったって俺ぇ、金ねえからよぉ。お前ぇ、金持ってんだろぉ」  悪いことをしたという意識は全くないようだ。 「ユメが帰ってくるっつーからよぉ、家のクリーニングとかぁ、マットレス買ったりぃ、うまいもん買ってよぉ、金使っちまったんだよぉ」 「頼んでないよ、そんなこと。お父さんが勝手にやったんじゃん!」  冷静を保つのは無理だった。 「親の愛情をそんなふうに言うことないだろぉ」 「そんなの愛情じゃないから。ただの自己満足だよ。わたしは何にも嬉しくない。二度としないで」  そう一方的に怒鳴りつけて、二階に駆け上がって自分の部屋に閉じこもった。  情けなくて仕方がなかった。父親と暮らすにあたって、ある程度覚悟はしていたつもりだった。でも、まだまだ甘かった。  父親は、私が金銭に余裕があるかのような口ぶりだった。確かにおばあちゃんは、弁護士だったおじいちゃんがそれなりに財産を遺したから、私に一人暮らしができるくらいの仕送りをしてくれる。同じく弁護士だったお母さんも、私が大学に行けるだけのお金を遺してくれた。でも、そこには想いがある。おばあちゃんは、贅沢できるだけのお金を持っているのに私のために節制してくれている。お母さんも、私に少しでもお金を遺したいと言って高額な治療を頑なに拒んだ。恵梨香に渡していいお金なんて、一円もないはずなのだ。父親のしたことは、おばあちゃんやお母さんの想いを踏みにじる行為だ。  お母さんがなぜ父親を見限らなかったのか、さっぱり理解できない。ここで暮らしていた頃、部屋や引き出しに鍵を付けることをお母さんに提案したことがある。そうすれば大事なものを盗られなくて済むと思ったからだ。でも、お母さんは、『そんなことをしてはダメよ』と諭すように言った。『お母さんはお父さんのことを諦めないし、信用していたいの』と言った。そうやって信じたせいで、父親に裏切られる度に余計に傷つくハメになるというのに。  しばらくベッドに座って脱力した後、とりあえず着替えようとスーツを脱いでいると、階段を上がってくる足音がして、勢いよく部屋のドアが開けられた。 「何かうまいもん食いに行くかぁ?」  こっちが下着しか付けていないのもお構いなしで、部屋の中に入ってくる。 「ちょっと、入ってこないでよ。出てって」 「なんだよぉ、別にいいだろぉ」 「良くない。本当に出ていって」  服で身体を隠しながら、本気で身の危険を感じた。私の同級生だった恵梨香を、十四歳で妊娠させたような男だ。 「まだ怒ってんのかよぉ」 「そういう問題じゃなくて」 「そんじゃあ、もう怒ってないのかぁ?」  そういうことじゃない、と言いかけたのを飲みこんだ。今は追い払えるのなら何だっていい。 「もう怒ってないから!」  怒鳴るように言ったら、父親は目に見えてホッとした顔になった。 「そうかぁ。ユメに嫌われたら俺ぇ、悲しいからなぁ」 「分かったから、あっち行って」 「おう。晩メシ何食う?」 「後で考えるから出ていって!」  そう叫んだら、やっと父親は部屋を出ていった。急いでドアを閉める。落ち着かない気持ちで服を着ながら、やっぱりこんなところでは暮らせないと思った。 「出かけてくる。晩ごはん要らないから」  父親にそう声をかけて家を出た。とても夕食を一緒に取る気にはなれなかった。 「おう」  行き先も聞かずに、父親は軽い調子で応じた。この人は結局、他人に関心がないのだ。私を怒らせたことももう忘れているに違いない。  駅に出るつもりが、足が勝手に叶多の家へと向かっている。歩きながらずっと訪問の口実を探していた。両親へのお悔やみを言わせてほしいというのも、昔みたいに仲良くしてほしいというのも、昨日の叶多の様子からは受け入れてもらえると思えなかった。  答えが出ないまま叶多の家の前に着いてしまった。【長谷川】という手作りの表札は昔のままで、でも、あの頃と違って花壇に花は無く、賑やかな子供の声も聞こえてこない。  臆病風に吹かれて家の周りをウロウロして、また家の前に戻ってきた。迷った挙句、おっかなびっくり呼び鈴を鳴らした。昔と変わらない大きなベルの音に、心臓が飛び出そうになる。  インターホンからの応答を待っていると、家の中から駆けてくる足音がして、ガラガラと勢いよく玄関の戸が開いた。 「あ、昨日のお姉ちゃん!」  幸多だった。私を見上げて愛嬌たっぷりに笑いかけてくる。昨日チラッと会っただけなのに、私の顔を覚えているのらしい。 「こんにちは、コウタくん」  屈みこんで挨拶する。 「勝手に出たらダメって言われただろ」  奥から別の子供の声がした。戸の裏にいるようで姿は見えない。 「でも、知ってる人だもん」  幸多が振り向いて一生懸命に言い返している。 「出る前は知ってる人か分かんないだろ」  言いこめられて、幸多がシュンとする。 「ミコト、そこで言い合ってたらお客さんに失礼だろ。いいから兄ちゃん呼んできて」  別の声が囁くのが聞こえた。幸多を引き入れて、十歳くらいの男の子が顔を出す。 「弟たちがすみません。兄がすぐに来ると思うので」  その男の子のことを、私はよく知っていた。幼い頃の面影が残っているのに、その所作はすっかり大人びている。 「アラタくんだよね?わたしのこと、忘れちゃったか」  最後に会った時、この子はピカピカのランドセルを背負って、家の中を走り回っていた。  新は、私の顔を見て困ったように眉を下げた。 「すみません、お名前を聞いてもいいですか?」  そう丁寧な口調で尋ねてくる。 「あ、ごめんね。岸本優芽といいます。アラタくん小さかったから覚えてないのも無理ないよね。わたし、カナタくんの友達で、昔よくここにーー」 「アラタ、いいよ」  奥から呼ばれて、新は私にぺこりとお辞儀をして家の中に入っていった。 「ユメちゃんか」  出てきた叶多は、私を見て眠そうな目をこすった。髪はボサボサで、ダボダボなグレーのスウェットを着ている。 「寝てたの?ごめんね」 「まあね。どうしたの?」  真正面からそう問われて、言葉に詰まってしまった。何を言っても拒絶されそうな気がして、叶多に拒絶されたらもう、どうしたらいいか分からなかった。  重い沈黙の後で、叶多は私の前からゆらりと身を引いた。  締め出されるのかと思っていると、 「お茶でも飲む?」 と、彼は頭を掻きながら言った。  玄関に入ると、上り框に立っている末っ子の幸多と目が合った。新に手を繋がれて、来客に興味津々といった様子で目を輝かせている。  彼らから少し離れたところにもう一人、幸多と同じいがぐり頭の男の子が立っていた。手元のゲーム機に目を落としている。三人いる叶多の弟のうち、真ん中の実采だろう。だとすれば、この春に小学二年生になるはずだ。でも、見かけはもう少し幼く見えた。叶多が幸多の頭を撫でると、チラッと目だけ上げて、拗ねたような顔をした。 「座ってて」  台所に通されて、ダイニングテーブルの椅子を勧められた。かつて、ここでよく家族の食卓に入れてもらった。あの頃と物の配置は変わらないのに、今はひどく物寂しい感じがした。 「ユメちゃんにもう一度会いたいと思ってたんだ」  幸多にまとわりつかれながらヤカンを火にかけて、叶多が言った。  同じ気持ちだったんだと嬉しくなったのも束の間、彼は続けて言った。 「ヒナタが喜ぶと思ってね」  陽咲は、叶多の二つ年下の妹だ。 「今、ヒナタに帰ってくるように連絡するね。あ、時間大丈夫?」  ガラケーを片手に訊いてくる。頷くと、慣れた手つきでカチカチと何やら入力し始めた。昔はスマホを使っていたから、きっとメールアドレスも変わってしまっているのだろう。こっちに戻ってくる時に叶多に連絡しようか迷ったけど、送ったところで届かなかったんだなと、叶多の横顔を見ながら思った。  幸多は、叶多のスウェットの裾を掴んで、しばらく私のことを見ていたけど、新にお茶の間から手招きされると、パッと表情を明るくして台所を飛び出していった。私たちの邪魔にならないように幸多を連れ出してくれたのらしい。新は、会わないうちにすっかりお兄ちゃんになってしまった。 「ヒナちゃん元気?」  叶多がケータイを閉じて尻ポケットにしまったのを見て、そう声をかけた。二人だけの空間に少し気まずさを感じている。 「元気だけど、あいつには困ってるんだ」  急須に茶葉を振りかけながら叶多が言う。 「困ってるって?」 「会えば分かるよ」  そう濁して、詳しくは教えてくれなかった。  ふつりと会話が切れて、叶多がお茶を淹れてくれるのをしばらく黙って見ていた。 「今日ね、入学式だったんだ」  沈黙に耐えかねて口を開いたのは今度も私だった。 「ああ、そうだったんだ。それはおめでとう」  そんな表面的な返しをして、叶多はお茶の入った湯呑みを私の前に置いた。 「チャラ木って覚えてる?」  心が折れそうになりながら、何とか会話を続けようと試みる。 「覚えてるよ。吉木でしょ」  私と違ってすぐに名前を出してきた。それが何か?という顔をしている。 「入学式にね、チャラ木がいたんだよ。学部は違うんだけど大学一緒でさ。びっくりしちゃった」 「そうなんだ」と叶多が気のない相槌を打つ。 「相変わらずチャラチャラしててさ、すっごい馴れ馴れしくって、付き合っちゃう?とかいきなり言ってきーー」  会話を続けたいあまり、余計なことまで口走った。慌てて口を閉じて、ますます気まずくなった。 「本気だったんじゃないの、吉木は」  調理台に寄りかかってゆっくりとお茶を啜った後、叶多が興味なさそうに呟いた。 「まさか。そんなに喋ったことないし。冗談に決まってるよ」 「そう?」  同意してもらえなくて、寂しい気持ちになった。昔は叶多も一緒になってチャラ木と呼んでいたのに。 「でね、チャラ木が言ってたんだけど」  核心に触れる前に唾を飲みこむ。 「おじちゃんとおばちゃん、亡くなったって……」 「うん、死んだよ」  叶多はうっすらと笑みを浮かべて、食い気味に肯定した。 「ごめんね、わたし知らなくて、昨日無神経なこと言ったかも……」 「何とも思わなかったよ。気にしないで」  被せるように叶多が言う。この話題を続けたくないという意思表示のように感じた。あるいは、そもそも私との会話自体を終わらせたいと思っているのかもしれない。 「ごめんと言えばさ、メールも返さなくてごめんね」  とりあえず話題を変えた。 「しつこくメールしたこっちが悪いんだよ」 「そんなことーー」 「いや、反省してる。今なら分かるよ。しんどい時にしんどい思いしてない奴から連絡来たら鬱陶しいし、気休めなんか言われたら腹立つよね」  否定しようとしかけて、言葉に詰まった。叶多からのメールを本当は心待ちにしていた、なんて、メールを返さなかった理由を言わない限り、信じてもらえるはずがない。  そして、再会して初めて少し饒舌になった彼の言葉が、私を拒絶するものに聞こえて、なおさら言葉が出なくなった。暗に私のことを鬱陶しいと言っているようだ。 「ヒナタが大学に行かないって言うんだ」  何も言い返せないでいると、叶多がサラッと話を変えた。 「ユメちゃんからも、大学行った方がいいよって言ってやってよ」  困ったもんだ、と言いたげに眉根を寄せている。 「そうなの?でも行かないって言ってるってことは、ヒナちゃん他にやりたいことがあるんじゃないの?」  私の知る陽咲は、弟たちの面倒をよく見るしっかり者のお姉ちゃんだった。 「あいつは何も考えてないよ。ユメちゃんも会えば分かる」  そんな風に言われたら、陽咲にまだ会っていない私には反論できない。 「どうしてヒナちゃんに大学に行って欲しいの?」  代わりにそう尋ねた。 「そりゃあ、父さんたちが生きてたらそうしてるはずだからだよ」  叶多が当然のことのように答える。彼の抱えこんでいるものが、垣間見えた気がした。 「だけどそんな、何もかも亡くならなかったのと同じようにってわけにはいかないでしょ」  余計なお世話だと思いながらも、諭さずにはいられなかった。 「わたしだって、お母さんが死ななかったらこっちに戻ってこなかったと思うし、カナタくんだって、高校辞めーー」 「俺はーー」  ほんの刹那、彼の目から激しい感情がほとばしるのを見た。でも、すぐに穏やかな表情に戻った。 「ユメちゃんのお母さん、亡くなったんだ」 「あ、うん。おととしの冬に」 「そっか。それは大変だったね」  その言葉にはいくらか心が込もっているように感じられた。  それを聞いて、私は再びあの感覚に襲われた。お母さんの葬儀で父親の泣き叫ぶ声を聞いた時と同じように、笑い出したくなった。冷静な自分が慌ててその感情の首根っこを掴もうとしたけど、さざ波が引くみたいに、それは無の中へと溶けていった。  また会話が途切れて、もう自分から始める気になれず沈黙に耐えていると、玄関のガラス戸が勢いよく開く音がした。 「ああ、帰ってきた」  叶多がそう呟いて再びヤカンの火をつける。廊下を走る足音の後、台所に制服姿の女の子が駆けこんできた。 「ユメちゃん!」 「……ヒナちゃん?」  記憶の中の少女とはあまりにもかけ離れていて、おずおずとそう確認した。 「会いたかった、ユメちゃん!」  その笑った顔で、やっとその子が陽咲であることを認識した。ウェーブした金色の髪を腰のあたりまで伸ばして、真っ赤なリップを塗っていても、笑顔は昔のままだった。 「久しぶりに見たな、ヒナタのそんな顔」  急須を手に叶多が言う。その顔がびっくりするくらい優しくて、ドキッとした。 「うざ。てか、そんなジジくせえの飲まねーし」  対する陽咲は反抗的だ。言葉遣いも昔からは考えられない。 「そう?」  叶多の方は、慣れているのか動じない。 「ね、ユメちゃん、外行かない?」 と、陽咲。 「うん、外で話してきたらいいよ」 と、叶多が同意する。 「うっざ。晩ごはん、あたしが作るから勝手に作んなよ」 「別にいいのに」  叶多とそんなやり取りをした後、陽咲は「行こ」と私に声をかけて、さっさと台所を出ていってしまった。 「あ、じゃあ、お邪魔しました」  叶多に向けて軽く頭を下げたら、 「お構いもせず」 と、彼は微笑んだ。 「今日は学校だったの?」  駅の方へ歩きながら、制服姿の陽咲にそう問いかけた。スカートの丈があまりにも短くて、下着が見えそうでハラハラする。 「ううん。あ、これ?これは、友達んちに遊びに行くのに私服選ぶのが面倒くさくて」  陽咲は着ている紺色のブレザーの裾をつまんで、笑って制服の訳を説明した。 「そうだったんだ。友達と遊んでたのに切り上げて帰ってきてくれたんだね」 「そりゃそうでしょ。ユメちゃんに会いたかったもん」  当然でしょという口ぶりで言い放つ陽咲を見て、失望しなかっただろうかと不安になった。私はこんなに地味で、何も持っていない。  陽咲は、私が一時的に戻ってきただけだと思っていたようで、大学に通うためにこっちで暮らすのだと伝えたら喜んでくれた。その笑顔が可愛くて、どうしてそんなに濃い化粧をしているのだろうと不思議に思った。 「大学に行くようにあたしを説得しろとか兄貴に言われなかった?」  大学の話の流れで、陽咲が嫌そうな顔で訊いてきた。嘘をつくわけにもいかず苦笑いを返すと、 「やっぱそうなんだ。何でもかんでも押しつけてくるのホントうざい」 と、不機嫌になってしまった。 「ヒナちゃんは大学に行きたくないの?」  ますます怒ってしまうだろうかと思いながら、恐る恐る尋ねてみた。陽咲は足を止めて、ムキになったように口を尖らせた。 「行きたくないなんて言ってない。大学行くかはあたしが決めることで、兄貴に押しつけられることじゃないって言ってるだけ。そうでしょ?」  同意を求められて頷いたら、陽咲はホッとしたような顔をした。 「ね、そこでクレープ食べない?」  明るい陽咲に戻って、前方にある店を指差す。昔からあるクレープ屋さんだ。 「何年ぶりだろ。全然変わってない」  店内に入って、陽咲は嬉しそうな声をあげた。お金が自由に使えなくて来れなかったのかもしれない。そう思って年上を理由に陽咲の分もまとめて払おうとしたら、「あたし結構リッチなんだよ」と断られた。 「クレープって自分じゃ作れなくってさ」  できたてのクレープを幸せそうに頬張りながら、陽咲がモゴモゴと喋る。 「コウタが食べたいって言うから一回作ったことあるんだけど、うまくいかなくって薄いパンケーキになっちゃった」  そんな他愛もないことを話すのを、相槌を打ちながら聞いた。昔もこんな風に陽咲との時間を過ごしていた。当時の空気を思い出して、やっと陽咲に会えたような気がした。 「あ、もうこんな時間」  高校での話をひとしきり聞かせてくれた後、スマホを見て陽咲は慌てたように水を飲み干した。店の壁にかかっている時計を見上げると、十七時を少し回ったところだった。 「ユメちゃん、うちで晩ごはん食べてかない?」  クレープの包み紙をきれいに畳みながら陽咲が言う。遠慮して断ろうとしたら、彼女は縋るような目をした。 「でも、カナタくんが許してくれるかな」  彼のよそよそしい態度を思い返して躊躇うと、陽咲はムッとしたようだった。 「兄貴なんか関係ないよ。それとも、ユメちゃんの家に迷惑かかる?」  首を横に振った。父親には夕飯不要だと伝えてある。陽咲と別れてからどこかで適当に食べて帰ろうと思っていた。 「じゃあ、いいでしょ?」  陽咲に押し切られて、自分の分の食事代を払うという条件で、言葉に甘えることにした。  スーパーで買い物をして、再び叶多の家に帰ってきた。 「あ、さっきのお姉ちゃん!」  玄関で幸多が私を指差すのを、実采が「人を指差したらダメ!」と払いのけている。 「カナタくんはいないのかな?」  一応了承を得た方がいいかと思ってそう尋ねると、 「僕のお部屋で寝てるよ」 と、幸多が教えてくれた。幸多と一緒に遅い昼寝をしたまま、まだ起きてこないのらしい。さっきも叶多は寝起きのようだった。体調が良くないのだろうか。そう思って心配になったけど、陽咲を怒らせそうで何も訊けなかった。  夕飯はハンバーグにするようだ。陽咲が玉ねぎを手早くみじん切りにするのを、手伝うこともできずに横で見ていると、突然、「何すんだよ!」と叫ぶ声と、そのすぐ後で子供の泣き声が聞こえてきた。 「いつものことだから」  後ろを気にした私に、陽咲が手を止めずに言う。 「でも……」 「アラタが何とかするし」  そうは言っても、子供は大きな声で泣き続けているし、叶多も目を覚ましてしまったに違いない。 「やっぱり、ちょっと見てくるね」  陽咲に断って、泣き声がする方へ向かった。  彼らは習字部屋にいた。かつて叶多のお母さんが習字を教えていた部屋だ。泣いているのは幸多で、その横で実采がムスッとした顔でランドセルを抱きかかえている。  声をかけようとした時、後ろから新がやってきた。 「ミコト兄ちゃんがぶったの」  新に向かって、幸多がそう訴えている。 「コウタが俺のランドセルを投げたんだ」  実采が負けじと主張する。 「だからってぶつことないだろ」  新は幸多の頭を撫でながら実采をたしなめて、 「ランドセル触りたかったら俺のにしとけって言っただろ」 と、幸多に言い聞かせた。そのまま、幸多の手を引いて部屋を出ていった。  実采は、ランドセルを抱きしめたまま立ち尽くしている。 「ミコトくん」  名前を呼んだら、ビクッとして顔を上げた。私の存在に今気づいたようで、睨みつけてくる。 「びっくりさせちゃったね。ごめんね」  いつも怒られているのだろう男の子のそばに屈みこんだ。 「すごい、ピカピカだね、ランドセル。綺麗に使ってるんだ」  光沢を放つランドセルは、傷ひとつなく、まるで新品のようだ。 「別に。これぐらい普通だし」  畳の上に大事そうに置いて、タオルハンカチで表面を拭いている。側面に、魚のニモをかたどったあみぐるみが吊り下げられている。 「普通じゃないよ。物を大事にできるのはすごいことだよ」  褒められ慣れていないのだろう。実采は目をキョロキョロさせた。 「別に。兄ちゃんが一生懸命働いて買ってくれたんだから、大事にするのは当たり前だし」  この子はとても純粋で、正義感の強い子なのだろうと思った。叶多にも昔、そういうところがあった。 「そっか。じゃあ、勝手に触られたら嫌だよね」 「いっつもだよ。コウタは言うこと聞かないんだ。ベタベタ触るし、振り回したり投げたりするし、乱暴なんだ」  少し気を許してくれたのか、実采の言葉数が増える。 「ミコトくんは我慢してちゃんとお兄ちゃんしてるんだ。偉いね」 「そうだよ。俺、いっつも我慢してんのに、いっつも俺だけ怒られる」  やっとこっちを見てくれた、と思ったら、実采はハッとした顔で私の斜め上を見た。 「またコウタを泣かしたのか」  後ろから叶多の声がした。振り向いた私を押しのけるようにして、叶多は実采の前に立った。 「カナタくん、ミコトくんは……」  庇おうとした私に、冷たい作り笑いを向けてくる。部外者は口を挟むなと牽制するかのようで、私は口をつぐむしかなかった。 「コウタはお前にとってたった一人の弟だろ。優しくしないとダメじゃないか」  叶多に叱られて、実采は口をへの字に曲げて俯いている。 「あー、バリカンしてあげようかと思ってたけど、そんな顔してる奴にはやめとこうかなぁ?」  叶多の試すような声に、実采がパッと顔を上げた。そんな実采の頭を、叶多がグリグリと撫でる。 「コウタに謝れるか?」  実采が小刻みに何度も頷く。よし、と言って、叶多が実采を抱き上げた。叶多の肩越しに、実采が満面の笑みを浮かべているのが見えた。その顔は、驚くほど昔の叶多に似ていた。  実采を担いだ叶多が私の横をすり抜けていった後、一人、習字部屋に残された。この部屋も昔のままだ。長机がいくつも並べられていて、いろんな柄の座布団が、机の上に積まれたり床に重ねられたりしている。机の横に一人分の布団が敷かれているのだけが場違いだ。  壁には、生徒たちの書道作品が貼られていて、その一番上に、美しい字で書かれた叶多たち兄弟の名前が並んでいる。 『素敵な名前ね』  そう言って、叶多のお母さんが私の名前を筆で書いてくれたことがあった。そして、その半紙を叶多の名前の横に置いてくれた。両親の言い争いを聞くのがつらくてこの家に入り浸っていた私に、『ここを自分の家だと思っていいのよ』と言ってくれた。どこまでも優しくて温かい人だった。私は彼女に救われたのに、お礼も伝えられなかった。  壁にはもう私の名前はない。片付けたのか、それとも捨ててしまったのか。当然だ。私はいっとき優しくしてもらっただけの居候で、家族ではないのだから。  出しゃばってはいけない。そう自分に言い聞かせた。いくら私にとってこの家の人たちが愛おしくても、彼らにとって私は部外者だ。彼らの領域に踏みこんではいけない。  きゃはは、と実采の嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。陽咲の言う通り、私は何もしなくて良かったのだ。  台所に戻ると、陽咲が肉だねをこねているところだった。 「いつもヒナちゃんがご飯作ってるの?」  その慣れた手つきを見て尋ねる。 「最近はね。前は兄貴が作ることが多かったんだけど、夜勤始めたから」  それを聞いて叶多が寝ていた訳が分かった。体調が悪いのではなく、夜勤明けで寝ていただけだったのだ。 「カナタくんも大変だね……」  思わずそう呟いたら、 「別にそんなこと誰も頼んでないけどね」 と、陽咲が腹立たしそうに声を尖らせた。  台所の長方形のダイニングテーブルに兄弟全員が揃った。かつて叶多のお父さんが座っていた窓側の席に叶多が座って、叶多の両脇に角を挟んで幸多と実采が座った。そして、幸多の隣に陽咲が、実采の隣に新が座った。私には、テーブルの長軸を隔てた叶多の向かいの席を用意してくれた。 「良かったの?こんな時間まで」  どっちのハンバーグが大きいかで揉めている実采と幸多を宥めながら叶多が訊いてくる。 「ごめん、図々しく居座ってて」 「いいでしょ別に。食事代も出してくれたし」  私の言葉に被せるように、反抗的な口調で陽咲が言い返す。 「いや、そういうことじゃなくて、ヒナタのわがままに付き合わせたんだろうなと思って。ユメちゃんに払わせたのか。いくら?」  叶多が腰を浮かして尻ポケットから財布を取り出したのを見て、陽咲がうんざりした顔をする。 「うっせえな。あたしたちの間で決めたことにいちいち口出しすんじゃねーよ」 「そういうわけにはいかないよ。ユメちゃんはお客さんなんだから、払わせるのはおかしいだろ」 「お客さんって。そんな他人みたいな言い方すんな」 「他人だよ。ヒナタももう子供じゃないんだ。ユメちゃんに甘えるのはいい加減にしろよ」  私のせいで言い争いが始まってしまった。 「あの、ごめんね」  居たたまれなくなって口を挟む。叶多が私を他人だと言うのを、これ以上聞きたくないという気持ちもあった。 「ヒナちゃんはお金要らないって言ったんだよ。それをわたしが、そういうわけにはいかないって無理に押しつけたの」  叶多が立ち上がって、財布を開きながら私のところにやって来る。 「うん、気持ちだけありがたく貰っとくね」  そう言って、私が出した分を全額払ってくれた。 「アラタ、お前も髪伸びたな。明日一緒に散髪行く?」  張りつめた空気の中で、自分の席に戻る途中、叶多が新に声をかけた。新が無言で首を横に振る。 「でも来週始業式だろ。ほら、五年生つったらクラス替えもあるし。第一印象は大事だよ」 「別に。みんな知り合いだし」  新が短く返す。 「もしかして金の心配してるのか?そんなの気にしなくていいんだからな。あ、アラタもバリカンで刈ってあげようか?」  コップを乱暴にテーブルに置く音がした。陽咲だった。 「しつっこい。アラタがいいっつってんだろ。何でもかんでも思い通りにしようとすんな」 「そんなつもりはないけど、髪が目に入りそうだしさ。遠慮してるんだったらそんな必要ないんだよって」 「そうだよね。兄貴が好き好んで夜な夜な働いてるだけで、別にお金に困ってるわけじゃないもんね」 「そんな言い方はないだろ」 「じゃあ何?一人で全部背負ってますみたいな顔してさ、マジでうざい」 「やめないか、ユメちゃんの前で」 「そうだね、お客さんの前で失礼があっちゃいけないもんね!」  皮肉のように陽咲が言い放つ。新の様子を窺うと、ご飯を掴んだお箸に目を落として、歯を食いしばるような表情をしていた。  その後は、実采と幸多が時々言い合いをする以外は誰も喋らなかった。  あの頃、この家での夕食は笑いが絶えなくて、とても居心地が良かった。今はむしろ昔の私の家みたいだ。そう思って、悲しくなった。  夕食を終えて、叶多は実采と幸多をお風呂に入れに行った。 「ホントムカつく」  陽咲がお皿を洗いながらまだ怒っている。 「ごめんね、わたしのせいで」  手渡されたお皿を拭きながら謝る。 「全っ然ユメちゃんのせいじゃないよ」 「ありがとう。でも、そろそろ帰るね。ご飯美味しかった」 「もう帰らなきゃダメ?」  陽咲がまた縋るような目をしてくる。 「ダメってわけじゃないけど、あんまり長居したら迷惑でしょ」 「迷惑じゃないし。むしろ、いて。明日土曜日だし、いいでしょ?まだ話したいこといっぱいある。兄貴はあと一時間もしたら仕事に行くし」  陽咲につられて時計を見上げると、十九時半だった。 「まあ、わたしはいいけど……」  私は私で、父親のいる家に帰りたくはなかった。  洗い物を終えて、陽咲が小さな洋服を器用に畳むのを見ていると、グレーのツナギを着た叶多が二階から降りてきた。その身体にパジャマ姿の幸多が抱きついている。  叶多は、まだいたのかという顔でこちらを一瞥した後、「明日はバイト?」と陽咲に問いかけた。 「ん。午後から」 「俺は十時に散髪行ってくる。昼は適当に買ってくるよ」 「あっそ」 「もう遅いし、早めにユメちゃん帰すんだよ」 「はいはい」 「じゃあ、行ってくる。ユメちゃんも、ヒナタに付き合わせちゃって悪かったね。気をつけて帰って」  相変わらずの他人行儀な笑顔で流れるように言って、叶多は出かけていった。  見送りに出ていた幸多がお茶の間に戻ってきて、陽咲の膝の上にペタンと座る。口をキュッと引き結んで、泣きそうなのを堪えているような表情だ。一緒に戻ってきた実采も、幸多の肩をぐいぐい押しながら同じ表情をしている。 「カナタくん何時に帰ってくるの?」  火が消えたようにすっかり意気消沈している弟たちを見て、陽咲に尋ねた。 「六時くらいじゃん?知らないけど」  陽咲がつまらなさそうに答える。叶多の睡眠を邪魔してしまったことを、改めて申し訳なく思った。 「夜勤はいつからやってるの?」  さらに尋ねると、 「三月二十三日からだよ。俺、終業式だったもん」 と、実采が正確な日にちを教えてくれた。まだ二週間も経っていない。この子たちは、寝る時に叶多がいない状況に慣れていないのだろう。 「もう、いつまでしょんぼりしてんの。起きたら帰ってきてるよ」  陽咲がうんざりしたように言って、幸多を膝から降ろした。 「明日は兄ちゃんずっといる?」 「いるよ。何か散髪行くとは言ってたけど」 「僕もついてく」と幸多。 「お前がついてったら邪魔だろ」と実采。  また言い合いになりかけたのを、いつの間に来たのか新が制した。 「じゃあ、寝かしてくる」 「ん、おやすみ」 「おやすみなさい」  新は丁寧に私にも挨拶して、弟たちを連れて二階へ上がっていった。 「アラタくん、すっかりお兄ちゃんだね」  その姿を見送りながら、率直な感想を漏らした。私がこの家に出入りしていた頃は、まだ小学校に上がるか上がらないかで、何をするにも叶多にべったりだったのに。 「あいつは苦労性なんだ。気遣ってばっか」 「そっか。兄弟の中で真ん中だもんね」 「うん。あたしと兄貴の仲は最悪だし、ミコトとコウタもいつもあんな感じで小競り合いばっかしてるから」  夕食の席でじっと耐えていた新の姿を思い出した。まるで自分の存在を消そうとしているみたいだった。 「十円ハゲがあるんだ」  陽咲がぽつりと言った。 「アラタの頭のさ、ここら辺にぽっかり、髪の毛が生えてないとこがあんの。こないだ見ちゃったんだ」  自分の右耳の少し上のあたりを指差して説明する。 「兄貴に心配かけたくないから黙っててって、あいつ、言うんだ。病院行きなって言ったけど、首振ってさ、そのうち治るからって」  言いながら泣きそうな顔になっている。 「あたしが兄貴に突っかかんなきゃ、余計な気苦労させなくて済むのかもしんないけど。あたしだって、平和に暮らしたいけど。だったら黙って兄貴に従ってりゃいいの?あたし、兄貴と二つしか違わないのに、全部兄貴に背負わせて、本当にそれでいいの?」  興奮している陽咲の背中を撫でると、しがみついてきた。甘ったるいような香水の匂いがした。 「あたし、もうどうしたらいいか分かんないよ」  陽咲の悲鳴に似た声に、胸が締めつけられそうになった。抱きしめ返してあげたかったけど、私のことを他人だと言った叶多のことを思うと、彼女の背中に触れたまま、身動きが取れなかった。 「頑張ってるね、ヒナちゃん」  迷いながらそう囁きかけた。 「ごはん作って、弟たちの面倒も見て、その上、バイトまでしてるんでしょ?」  この子だってまだ高校二年生になったばかりなのだ。私が陽咲と同じ歳の頃は、全てのことをおばあちゃんにやってもらっていた。日に日に弱っていくお母さんを前に、どうすることもできず、何の気力もなく、ただぼんやりと過ごしていただけだった。こんな私が、陽咲にどんな言葉をかけられるだろう。 「バイトは、ホントは生活費の足しにしようと思って始めたんだ」  陽咲が鼻を啜って掠れた声を出した。 「こんな、髪染めたりメイクするために始めたわけじゃない」  私が相槌を打つと、陽咲は続けた。 「驚かせてやろうと思ってさ、高校に入ってから兄貴に内緒でバイト始めて、バイト代渡したの。そしたら、怒られた。こんなことしてくれなんて誰も頼んでないって。自分で使えって言って、受け取ってくんなかった」  意味不明でしょ、と陽咲は私に同意を求めた。 「相手のカシツが百パーセントだったんだって」 「カシツ?」 「うん、過失。お父さんとお母さん、居眠り運転のトラックに轢かれて。相手が百パー悪くて。慰謝料が毎月入ってくるんだ」  陽咲は両親の事故について初めて話し出した。 「それだけじゃなくて、生命保険だって降りたし、お父さんたちが遺してくれたお金だってあるし。だから、兄貴があくせく働かなくったって、生活くらいできるんだよ。少なくとも高校を辞めることはなかったはずだって叔母ちゃんが言ってた」  声に再び涙が混じった。 「それなのに、兄貴はさっさと高校辞めた。そのくせに、あたしからのバイト代は受け取らなくって、あたしには大学に行けって押しつけてくる。お父さんとお母さんが死んだこと全部自分が背負おうとしてるみたいに。だからムカつく。それこそ誰もそんなこと頼んでないし、兄貴の人生はどうなるの」  嗚咽を漏らして泣き出したのを見て、たまらなくなって陽咲のことを抱きしめた。この子は昔から変わらずに兄を慕っていて、だからこんなにも腹を立てているのだ。  叶多に釘を刺されなくても、他人の私には何もできない。こうして抱きしめること以外には。 「大変だったね」  そんな薄っぺらい言葉を口にすること以外には。 「突然だったから、全然実感が湧かなくてね」  鼻声で陽咲は話を続けた。 「兄貴とか叔母ちゃんがバタバタしてるの、あたし、他人事みたいに見てたんだ」  苦しそうに鼻を啜っている。 「何日も何日も過ぎて、それでもよく分かんなくって、忌引きが明けて学校通い出してからも、あたしまだピンときてなくて、あたしがこんなんだから兄貴は学校を辞めたんだ」 「ヒナちゃんのせいじゃーー」 「生理が止まったの」  絞り出すように陽咲は言った。 「それで実感したの。お母さんはもういないんだなって。三ヶ月くらい来なくて、誰にも相談できなくって、怖かった……」  しくしくと泣く陽咲の頭を撫でていると、二階から急に子供の泣き声が聞こえてきた。  陽咲が私から身を離して、涙を拭きながら小さくため息をつく。 「コウタ」  泣き声の主を告げて立ち上がった。たった今まで泣いていたとは思えないほど、しっかり者のお姉ちゃんの顔になっている。  陽咲についていくと、二階の子供部屋で幸多が新のことを叩いていた。その隣で実采が布団を頭まで被って耳を塞いでいる。 「兄ちゃん、兄ちゃあん」  幸多は、宥めようとしている新の腕の中でもがきながら、声を限りにそう叫んでいる。 「うるさいから何とかして」  実采が布団の中から陽咲に訴える。 「コウタ、大丈夫だから」  陽咲がそばに座ると、幸多はその首に抱きついた。叫ぶのはやめたものの、悲痛な泣き声をあげ続けている。 「戻っていいよ」  陽咲が優しく声をかけると、新はこくっと頷いて部屋を出ていった。  幸多はしばらく泣きやまなかった。陽咲が辛抱強く頭を撫でたり身体を揺らしたりしていると、そのうちに嗚咽だけになって、やがて泣き疲れたように陽咲にもたれかかって眠った。 「去年の今ぐらいの時期にさ、二ヶ月くらい叔母ちゃんの家に引き取られてたの」  陽咲が声をひそめて言った。 「コウタくんが?」 「そう、コウタだけ。でも、今みたいに毎晩泣いたんだろうね。こっち戻ってきて。戻ってきてからもしばらく泣いてた。最近は泣かなくなってたんだけど、兄貴が夜勤始めてからまた泣くようになった」  幸多の身体を優しく揺らし続けている。 「最初の夜なんて最悪だった。何やってもダメで、ずっと泣いてて。本当は兄貴がいいんだよ。でも、あたしで妥協することにしたみたい」  陽咲が幸多を布団の上にそっと降ろすと、まだ完全には眠っていなかったようで、陽咲のスカートの裾を掴んでぐずった。 「カナタくんはこのこと知ってるの?」  そう尋ねたら、陽咲は首を傾げた。 「知らないんじゃない?言っても困らせるだけだし。……ちょっとコウタ、離して」  陽咲がスカートを掴む幸多の小さな手を払いのけようとする。 「やだ」  廊下から入る薄明かりが、幸多の泣き腫らした目を照らしていて、痛々しい。 「ユメちゃんにバイバイしなきゃいけないから」  陽咲がそう言い聞かせたら、幸多は私のことだと認識したようで、膝に抱きついてきた。 「バイバイしないもん」 「わがままばっかり言わないの」  幸多がまた泣き声をあげる。声が枯れていて可哀想だった。 「いい加減にしてよ」  陽咲が引き剥がそうとするけど、強い力で私にしがみついて離れない。右手に温もりを感じて手元を見ると、実采が私の手を掴んでこちらを見上げていた。 「ミコトまで、いい加減にーー」 「いいよ、ヒナちゃん」  不可抗力だと思った。 「一緒に寝る?」  幸多の頭を撫でて、実采の手を握り返してそう問いかけた。二人が大きく頷く。 「でも、ユメちゃん……」  申し訳なさそうにする陽咲に、父親と喧嘩して家に帰りたくないことを打ち明けた。それに、幸多の体温を感じているうちに一気に疲れが押し寄せてきて、できることなら今すぐ横になりたかった。  幸多と実采の間に身体を潜りこませたら、両脇から彼らに抱きつかれた。それが温かくて、布団がなくても十分なくらいだったけど、陽咲が別の布団を持ってきて被せてくれた。  陽咲が部屋を出ていって、まどろみながら今日の一日を振り返っていた。朝からラーメンを食べさせられて、大学の入学式があって、そこに吉木がいて、叶多の両親が亡くなったことを知った。家に帰ったら恵梨香と蓮哉が来ていて、父親が私のお金を勝手に渡してしまっていた。恵梨香に家賃を払えと言われたっけ……。  気分が沈むよりも早く眠りに落ちていって、そこでその日の記憶は途切れた。
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