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負けないで
右腕が軽くなる感覚で目を覚ました。
目を開けると、誰かが実采を私から引き剥がしたところだった。
その誰かと目が合う。
「おはよう」
それはツナギ姿の叶多だった。カーテンの隙間から日が差しこんでいる。
「あ、ごめん」
状況を思い出して、慌てて頭を起こした。
「いや。重たかったでしょ」
「ううん」
首を横に振ったけど、確かに腕が痺れている。
「起きる?コーヒー淹れるけど」
「あ、うん」
今何時なのだろうと思った。ケータイは1階に置きっぱなしだ。
実采と幸多を起こさないようにそっと布団を抜け出して、先に行った叶多を追いかけるように階段を降りた。
「顔洗いたかったら、そこが洗面所……って、知ってるよね」
台所でヤカンに水を入れながら叶多は小さく笑った。
「うん。ありがとう」
言葉に甘えて、洗面所で顔を洗って口の中をゆすいだ。鏡の中の自分がくたびれて見えて、気休めに手櫛で髪を整える。鏡の横の時計は、六時十五分を指していた。
「ごめん、勝手に泊まっちゃって。帰るね」
お茶の間に置いていた鞄とコートを取って、叶多に声をかける。さすがにこれ以上長居するのは憚られた。
「コーヒー飲んでかない?ユメちゃんの分も淹れるよ」
意外にも引き留められた。考えてみれば全く意外なことではない。叶多は昔から優しい人だった。
「ミコトはなかなか人に懐かないんだ」
私に椅子を勧めて、叶多が言った。
「保育園でも最後まで先生に反抗してばかりでさ。親が死んで幼稚園から転園したから、馴染めなかったっていうのもあるだろうけど」
叶多は話しながらお茶の間に引っこんで、ツナギの袖を腰に結びつけた状態で戻ってきた。中に着ている白いTシャツが、汗で肌に張りついている。
「だから、ミコトがユメちゃんにくっついて寝てるの見て、ちょっとびっくりした。ミコトのこと振り払えなくて泊まってくれたんでしょ」
彼がヤカンからマグカップにお湯を注ぐと、コーヒーの香ばしい香りがたった。
「妹と弟たちがご迷惑をおかけして」
詫びるように頭を下げて、私の前にコーヒーを置く。
「砂糖とミルク要る?」
「あ、じゃあミルクだけもらえる?」
このままでは熱くてすぐに飲めない。叶多は冷蔵庫から牛乳を取って手渡してくれた。
「子供の頃は、砂糖入れないと飲めなかったよね」
自分はブラックのままで、調理台に寄りかかって言った。
「そうだったね。カナタくん、入れ過ぎておばちゃんによく怒られてた」
遠い日の思い出が、私たちの間を通り抜けていった。
「あの頃とはもう、何もかも違うよ」
叶多の言葉が、空気をいっぺんに硬化させる。
「ユメちゃんは優しいから、吉木に俺の家のこと聞いて、心配して来てくれたんでしょ」
コーヒーをひと口啜って、叶多は続けた。
「でも、ユメちゃんには関係ないよ。昔は家族みたいに過ごしてたかもしれないけど、今はもう何の繋がりもない。だから、同情してくれなくていいよ」
突き放すような言い方ではなく、むしろ優しい言い方だった。だからこそ強い拒絶を感じた。それでも私は、彼の最後の言葉だけは打ち消さずにいられなかった。
「わたし、同情してここに来たわけじゃないよ」
そんな見下すような感情を叶多に対して抱いたと誤解されたまま、別れたくなかった。
「家にいたくなかったの。お父さんと喧嘩して。喧嘩っていうか、わたしが一方的にキレてるだけなんだけど。本当にあり得なくて。おばあちゃんからもらったお金をさ、引き出しに入れてたの。それはさ、本当にいざとなったら使おうっていう、お守り代わりのお金だったんだよ。それをさ、お父さんが勝手に人にあげちゃって。ひどくない?」
私が愚痴るのを、叶多は黙って聞いてくれた。
「怒ったけど、お父さん全然分かってくれなくて、もう何か、全部嫌になっちゃって、それで家飛び出して、でも行くとこなくて、それで……」
言いながら、自分は何をベラベラ喋っているんだろうと思った。それこそ叶多には何の関係もない話だ。
「ちょっと待ってて」
呆れたのか、叶多は飲んでいたコーヒーをテーブルの上に置いて、台所を出ていってしまった。
私が自己嫌悪に陥っていると、戻ってきて私の斜め横に座った。紺色のジャージに着替えている。
「俺には、ユメちゃんの家の問題を解決することはできないし、ユメちゃんも俺の家の問題を何とかしようと思ってくれなくていい。でも、」
叶多はまっすぐに私の目を見つめてきた。
「もしユメちゃんさえ良かったら、負担にならない範囲で、たまにヒナタの話し相手になってやってくれると助かる。あいつ、兄弟で一人だけ女だし、あいつがあんな嬉しそうな顔すんの、久しぶりに見たから」
改まって何を言い出すのかと思えば、ヒナタ、ヒナタって、この人は昨日からそればかりだ。
「ヒナちゃんのこと困ってるって言ってたけど、あの子はしっかりしてるよ」
一日越しに反論したら、「そうかな」と叶多は首を傾げた。
「そうだよ。大学のことだって、自分でちゃんと考えてるし。もしヒナちゃんが行かないことにしたって、カナタくんが責任を感じることないと思う」
叶多が黙ったから、また出しゃばってしまったとすぐに後悔した。
「そうだな。俺はヒナタにいろいろと押しつけすぎてるのかもしれない」
コーヒーをゆっくり啜った後、叶多は独り言のように言った。
「ヒナタには大学に行って欲しいんだ。それはもちろんヒナタのためもあるけど、ヒナタの後にアラタがいるからだ。アラタは遠慮する奴だから、もしヒナタが大学に行かなかったら、自分も諦めるに決まってる。俺は、あいつらに何も諦めてほしくない」
そうやって一人で抱えこんでいる叶多に、私はどうしても口を出さずにはいられない。
「だからカナタくんは働いてるの?」
問いの意図が分からなかったようで、目で訊き返された。
「ヒナちゃん言ってたよ。カナタくんがそんなに働く必要はないんじゃないかって」
そう補足したら、「ああ、叔母さんか」と小さく呟いて、叶多は嫌そうな顔をした。
「生活くらいならできるだろうね。でも、俺が働かなかったら、あいつらにいろんなことを諦めさせることになると思うから。この先何があるか分からないし」
妹と弟たちのために、叶多は自分を犠牲にすることを選んでしまったのだと分かった。
「夜勤じゃなきゃダメなの?」
幸多は昨日の晩ひどく泣いた。弟たちのためだと言うなら、昼間の勤務にした方が良いのではないかと思った。
「うん。だって、夜勤なら学校の行事に出られるし、ミコトたちが体調崩しても一人にしなくて済むから」
叶多は明快に理由を述べた。それならもう、私に言えることは何もなかった。
コーヒーの最後のひと口を飲んで、お暇することにした。
「そういえば、ヒナタのことしっかりしてるって言ったけど、何のバイトしてるか聞いた?」
玄関に向かう私に、叶多が後ろから話しかけてくる。
「カフェって聞いたけど」
「まあ、カフェはカフェだね」
含みのある言い方だ。振り向いたわたしに、叶多は苦笑いを向けた。
「俺が言ったって知ったら怒るだろうけど、あいつ、メイドカフェで働いてるんだよ」
「え?」
驚いて声をあげる。
「俺が心配するの分かるでしょ?」
「うん……。ヒナちゃん可愛いし」
叶多が真剣な顔で頷く。シスコンなのは昔からだ。
「ヒナタは多分、寂しいんだ」
靴を履く私の後ろで、叶多はそんなことを言った。
「だから、本当に気が向いた時だけでいいから、話し相手になってやって」
躊躇うように語尾を弱めている。立ち上がって叶多を見ると、困ったような顔をしていた。私に頼み事をすることに気兼ねしているのだろうか。
「大丈夫だよ。わたしもヒナちゃんのこと大好きだし。連絡先交換したからメールしてみるね」
気にしなくていいと伝えたくてそう返したのに、叶多はまだ浮かない表情だ。
別れを告げようとしたら、叶多が視線を彷徨わせながら口を開いた。
「ユメちゃんのお父さん、俺は悪い人じゃないと思うけど……」
言葉を探すような間を空けて、彼は続けた。
「負けないでね、ユメちゃん」
その時、何かが記憶の琴線に触れた気がした。
叶多の家を後にして、帰り道ずっと、思い出しかけた何かを追い続けていた。大事なことを忘れているような気がして。
でも、思い出せないまま家に着いて、父親の部屋に直行した。
「お父さん」
布団で寝ている父親に声をかける。
「おう」
父親は薄く目を開けてこちらを見た。娘が朝帰りしたことに、気づいていないのか気にしていないのか、何も言わない。かといって、起こされたことに腹を立てる様子もない。
「あのね、お父さん」
父親のそばに正座して、話しかけた。
「わたし、お父さんがわたしのお金を勝手にエリカちゃんにあげたの、すごく嫌だった。おばあちゃんに貰った大事なお金だったから」
父親は半分寝ているのか、相槌も打たない。
「だから、二度とわたしのものを勝手に人にあげないで。あと、わたしの部屋に入る時は必ずノックして。いい?」
昨日は絶対に許せないと思っていた。だけど、叶多たちが抱えているものに比べたら、これは些細なことだと思えた。お金を盗ったことを許すつもりはないけど、私は父親と向き合うことを簡単に諦めない。今日はそう思えた。
「おう」
父親はいつものような軽い調子でそう返事した。
それから私はもうひと眠りするために自分の部屋に戻った。ベッドの上でうつらうつらしながら、父親を悪い人じゃないと思うと言った叶多の言葉を思い出して、会わせたことがあっただろうかと不思議に思った。
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