新入生ガイダンス

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新入生ガイダンス

 月曜日は新入生ガイダンスだった。大学の広い講堂に心理学部の一年生だけが集められて、大学の紹介や、大学生活を送る上で重要なこと、例えば履修登録の仕方や教科書の入手方法などの説明を受けた。  座席は出席番号順で、私は一番後ろの席だったから、講堂全体を見渡すことができた。他の学部と合同で行われた入学式ではあまり感じなかったけど、こうして心理学部の学生だけになると、圧倒的に女が多い。暗い色の髪の人が大半だが、中には派手な髪色の人もチラホラいる。私のすぐ前に座っている女もそうだ。金色の髪をハーフアップに編みこんで、背中がざっくり開いた白いニットの服を着ている。  その明るい金髪を見ながら、陽咲を想った。メイドカフェで働く姿は、あまり想像ができない。あの子は昔、仲の良い人以外にはシャイなところがあった。特に異性に対しては奥手で、当時好きだった子になかなか話しかけられなくて悩んでいた。  陽咲は寂しいのだと叶多は言った。たくさん兄弟がいて、兄にあんなに大事に思われていて、高校の友達の話もたくさん聞かせてくれたのに、それでも寂しいのだろうか。  まあ、寂しいか、と自答する。あの子はお父さんとお母さんのことが大好きだった。弟たちに注目を奪われてむくれることもあった。そんな時は、叶多が黙って陽咲の頭を撫でていたものだった。  きっと私が異常なのだ。私も、お母さんを愛していたし、弱っていく姿を見るのはつらかった。でも、お母さんが死んだ時、寂しいとは思わなかった。涙ひとつ出なかった。私の心を支配していた感情は、悲しみよりも恐れだった。あの時私は何に怯えていたのだろう。今も分からずにいる。 「ユウメ、ちゃん?」  不意に声をかけられて我に返った。いつの間にか教員による説明が終わったようだ。前の席の金髪の女が、こちらを振り向いて私の名札を覗きこんでいた。 「あ、ユメと、言い、ます?」  急に現実に引き戻されて、しどろもどろになった。同級生なのだからタメ口の方が良いだろうかと思ったりして、語尾が不自然に上がった。  そんな私を見て、あはは、と彼女は笑った。見かけのイメージに反して、気持ちの良い笑い方だった。 「ユメちゃんね。カッコいい名前だね。私はチヒロと言います。ごめんね、こんなギャルにいきなり話しかけられたら怖いよね」  彼女は『川崎千尋』と書かれた名札を示しながらそう名乗った。私が首を横に振ると、「良かった」とにっこりした。 「女子率高いよね。ユメちゃんは何でここにしたの?」  初対面にしては割と踏みこんだ質問だ。でも、親しみの持てる口調のせいか嫌な感じはしない。 「家から近かったのと、心理学が面白そうだったから、かな」  自分の心が知りたい、などと会ったばかりの相手に打ち明ける勇気はなく、表面上の答えを返した。 「分かる。心理学って謎に満ちてるよね」  千尋は馬鹿にすることなく受け入れてくれた。 「チヒロちゃんは、どうしてここに?」  同じ質問を返すと、 「カウンセラーになりたくて」 と、彼女はサラッと答えた。 「こんなギャルになれるわけないって思うかもしれないけど」  私の反応を伺うように自虐の言葉を付け加えてきたから、そんな顔をしてしまっただろうかと慌てて否定する。私はただ、目標がはっきりしていることを眩しく感じただけだ。 「私さ、死んじゃおうとしたことがあるんだよね」  千尋は唐突に打ち明け話を始めた。 「彼氏にひどいフラれ方して、もう生きててもしょうがないかって、手首切ってさ。あはは、馬鹿でしょ?」  彼女が長袖のニットをめくると、手首に引きつれた傷跡がチラッと見えた。 「親がすぐに気づいて救急車呼んでくれたから、今ここにいるんだけど。で、カウンセリング受けさせられて、このカウンセラーがすっごく良い人だったんだ。私、その人のこと尊敬しまくっててさ、それで同じ道に進もうと思ったんだよね」  カウンセラーを目指す理由を、千尋はそう説明した。その話を聞いて、浅い答えしか口にしなかった自分を恥じた。自分の心が知りたいという本当の理由も、千尋のものに比べるとひどく薄っぺらいものに思えた。 「この髪もさ、いい加減やめようとは思ってるんだけど」  金色の毛先を手に取って、彼女は醜いものを見るように口元を歪ませた。 「派手にしてないと不安でさ。自分が何の価値もない人間みたいに思えて」  意外だった。その容姿と話し方からは自信に溢れた女性という印象を受ける。それなのにその心はまるで裏腹で、私はまた陽咲を想った。あの子も不安なのだろうか。だから金髪にしてあんなに濃いメイクをしているのだろうか。  それと同時に、千尋のことを尊敬した。 「すごいね、自分のことそんな風に分析できて。わたしはカウンセラーの仕事のことあんまり知らないけど、向いてると思う」  私は全然ダメだな、と本音を呟いた。 「私はユメちゃんの方こそ向いてると思うけど」  千尋は私の呟きを拾って、思ってもみないことを言った。 「聞き上手って言われない?私、いつもはこんなベラベラ喋んないよ。何かつい喋ってた。ユメちゃんにはいい迷惑だろうけど」  さっきからこうして自分のことを軽んじるような言葉を挟むのは、不安だからなのかもしれない。 「ううん、迷惑なんてことないよ」  その一つひとつを否定しようと思った。 「知り合いの子がね、高校生なんだけど、久しぶりに会ったら思いっきり金髪になっててさ、どういう心境なのかなって考えてたところだったから、チヒロちゃんの話、すごく参考になった」  陽咲の話を出すと、千尋は優しい顔をして微笑んだ。 「やっぱりユメちゃんって、自分のことより人のこと考えちゃうタイプでしょ」  そんなことはないと思う。返しに困った私を見て、彼女はまた声をあげて笑った。 「私さ、髪の色を派手にする子って、自分のことが大好きなタイプと大っ嫌いなタイプの二種類いると思うんだよね。その子はどう?」  千尋はそう自説を唱えて、私に問いかけた。 「ネガティブなことたくさん言ったり、共感したげたらホッとした顔する?」 「……ああ、うん、その感じはあるかも」  先日の陽咲との会話を思い出して肯定した。 「じゃあ、私と同じで自分のこと嫌いなのかもね。飾りたてることで自分を保ってるんだ」  すらすらと考察を述べる。千尋の話をもっと聞きたくなった。 「その子、親を亡くしちゃってね、今、メイドカフェで働いてるらしいの。そんな感じの子じゃなかったのに」 「ああ、その子、親の代わりに可愛いって言ってくれる人のことを求めてるのかもね。そうやって自分の価値を確かめてるんだ」  千尋はすぐにそう返してきた。本当にすごいな、とまた感心する。それと同時に、千尋の言うことが本当だったらと考えて、悲しい気持ちになった。確かめるまでもなく、陽咲は大事な子なのに。  教員が講堂に戻ってきて、千尋との会話を中断した。  それからは、学長からのビデオメッセージを見て、学部長の楢崎がたっぷり三十分間プレゼンテーションを行うのを聞いた。  いわく、心理学とは心について科学的に研究する学問であること。心理学は、実験等を通して心のメカニズムやその原理を追求する基礎心理学と、基礎心理学で得られた知見を社会に還元する応用心理学の二つに大別され、さらに基礎心理学は、認知心理学、発達心理学、異常心理学などといった項目に、応用心理学は、臨床心理学、犯罪心理学、家族心理学などといった項目に細分化されること。心理学のルーツは古く、古代ギリシャにまで遡れること。などなど。  楢崎は、心理学部で学ぶ教科についても一つひとつ丁寧に説明してくれた後、卒業生の進路や大学院を紹介して、話を閉じた。  なお、卒業生の進路は、一般企業への就職が大部分を占め、大学院への進学が一割程度、高齢者や障害者向けの施設で働くのが一割弱、公務員、病院、教育関係がそれぞれ数パーセントずつだそうで、卒業後も心理学に直接的に関わる人は意外と少ないのだなという印象を受けた。  楢崎の平坦な声のトーンに、新入生があちこちで舟を漕いでいて、私も昨日ちゃんと寝ておかなければヤバかっただろうなと、何度も頭を振っている千尋の後ろ姿を見ながら思った。  楢崎の話が終わると、教員が再び壇上に現れて、数点細々とした補足説明をした。  そして。  彼は束ねたファイル類を、整えるように教卓の上に打ちつけた。静まり返った講堂にその音はよく響いて、居眠りしていた新入生たちの目を覚ました。 「さて、ガイダンスはここで終了ですが、」  それまでどこか気だるげに説明していた口調とは打って変わって、ハリのある声で彼は言った。 「最後に、先輩として、僕からみなさんに短いメッセージを送ります」  遠目に何となく四十代くらいかと思っていたけど、その声は若く、三十そこそこかもしれない。 「みなさんが、貴重な大学生活で学ぶ学問として心理学を選んだ理由は、さまざまかと思います」  そう切り出して、宮澤という名前の教員は講堂をぐるりと見渡した。 「面白そう、自分のことが知りたい、あるいは他人のことが知りたい、コミニュケーションスキルを磨きたい、心理学を屈指してモテたい、どんな動機でも結構だ」  モテたい、というところで、前の方で女たちの忍び笑いが起きた。 「たとえば僕は、通っていた高校でひどいイジメが行われていたことがきっかけだった。そのイジメは、教師を巻き込み、親をも巻き込み、人間の醜い部分を全て煮詰めたような、実に凄惨たるものだった」  そこで宮澤はひと呼吸置き、再び口を開いた。 「僕は傍観していた。イジメが行われていることを知りながら、見て見ぬ振りをした。自分がいじめられたくないからだ。僕だけじゃない。クラスの全員がそうした」  その結果どうなったか、と彼は言葉を繋いだ。 「一人、二人と、体調を崩して学校を休む者が出てきた。いじめられている生徒ではなく、傍観している生徒に、だ」  もはや講堂に居眠りをしている人はいなかった。誰もが彼のよく響く声に聞き入っていた。 「僕も体調を崩した。夜眠れなくなった。食欲がなくなり、ひどい頭痛に悩まされた。不思議だった。自分が直接危害を加えられたわけではないのに、なぜ自分はこんなに苦しんでいるのかと」  彼はゆっくりと教壇の上を移動した。 「人には、他人が酷い目に遭っている時に、あたかも自分がそれを体験しているかのように感じる共感力が備わっている。これは人だけではなく、サルやマウスでも観察されることだが、思いやりと呼ばれる行動の元になるものだ。  イジメを見て、僕らは被害者に共感した。しかしそれと同時に、自分はいじめられたくないという利己的な感情をも抱いた。良心と利己的な感情とがぶつかりあって、心の中に葛藤が生じた。起きている時間の大部分を過ごす学校で、イジメを目撃して、絶えず葛藤する。その結果、心が疲弊して、身体に不調を招いたわけだ。心と身体が繋がっていることを、僕はその時、身をもって体験した」  宮澤は教壇の端で人差し指を立てた。 「ここで一つ疑問が生じる。たとえそれが自分を傷つけることになったとしても、人は思いやりを、良心を捨てることができないのか。また一方で、加害者によるイジメや、それに加担した大人の所業は、悪の為せる業としか思えないものだったが、イジメを行う者たちの中には良心がないのか。  人間の本質はどっちだ。全てを取り除いた時に最後に残るのは、善なのか、悪なのか。その答えが知りたくて、僕はこの世界に入った」  教壇の真ん中に戻り、彼は教卓に手をついて再び講堂全体を見渡した。 「残念ながら、心は目に見えない。心理学の世界では明確な答えが得られないことの方が多い。それでも僕らは問い続ける。心理学の研究では、自らの心を見つめ直すことが必要になることもある。時には自分の中のトラウマ的な体験を掘り起こして、向き合わなければならないこともあるだろう」  宮澤と目が合った気がした。そんなはずはないと分かっていても、射抜かれたように身動きができなくなった。 「当然その作業は苦しい。しかし、忘れないでほしい。心理学という学問が目指すのは、心というものを理解して、豊かに生きることだ。だから、どうかその苦しみから逃げないでほしい。みなさんが悩み抜いて辿り着いた答えを、聞かせてもらえるのを楽しみにしている」  まるで、覚悟しろと言われているような気がして、私は宮澤から目を逸らせないまま、底知れない恐怖心を抱いていた。 「それから、友人を大事にすることだ。一人では行き詰まってしまっても、友人と話しているうちに答えが見つかることもある。これまで出会ったことのない種類の人や、合わないと思うような人とも、積極的にコミュニケーションを図ってみてほしい。案外そういう人が生涯の友になるものだ。そして、そういった友人は歳を取るごとに得にくくなる」  宮澤は、講堂の壁にかかるアナログ時計を見上げた。11:43と表示されている。ガイダンスのしおりによると、午前の部は11:45までとなっている。 「余談だが、僕は高校を休学して、半年ほど療養していた。みなさんの中にも、つまづいた経験を持つ人がいるだろう。大事なのは、失った時間ではなく、これから何を成すかだ。苦しんで、あがいて、それでも考え続ける糧とするなら、その経験はあなただけの宝物だ。  僕は今、楢崎教授の研究室で、発達心理学を専攻している。心理にまつわる議論は大歓迎だ。いつでも気軽に訪ねてきてほしい」  宮澤は、そんな熱い言葉で、五分以上に渡った演説を締めくくった。時計はちょうど11:45を指していた。  その後は、六、七人の小グループに分けられて、担当教官のところへと赴いた。グループ分けの方法は不明だが、出席番号順でないことは確かで、千尋とは別のグループだった。誰かが「入試の成績順かもね」と推測した。男女比は各グループで揃っているようだから、男女それぞれで振り分けているのかもしれない。  私たちの担当教官となる比較心理学の教授に挨拶して、軽く自己紹介をした後、教授と別れて学食でそのメンバーと昼食を取ることになった。 「なんか、宮澤先生熱すぎだったよね」  私の向かいに座る、大きなフレームの眼鏡をかけた女が言った。 「それな。短いメッセージて、全然短ないし」  私の右隣の大阪出身の女が、関西訛りで同調した。 「思った。五分以上喋ってたし。シーンとしちゃってさ、私お腹鳴りそうでヤバかったもん」  斜め向かいで、金髪の女も笑いながら同調する。先ほどクスクス忍び笑いしていた集団にいた気がする。  同じグループの男二人は、まとまった席が取れず、少し離れた所で食べている。 「ぶっちゃけ私、モテたくてここ来たクチでさ、宮澤先生がそれ言った時笑っちゃった」  それでかと納得した。この子は千尋に言わせると自分大好きな金髪ということになるのだろうか。 「うちは、就職が有利になるんかな思て。心理学部でコミュニケーション力磨きましたゆうんがアピールになるて、進路情報誌に書いてあったんよね」 「岸本さんは、どうして心理学部を選んだの?」  相槌を打つだけの私に眼鏡の女が振ってきた。 「わたしは……、面白そうだなと思って」  千尋に言ったのと同じ答えを口にした。 「私も。何かさ、他の学部は何勉強するのか何となく想像つくけど、心理学って何?って感じだよね」  眼鏡の女が、私のありきたりな答えに同調した。 「何か、あんまし聞いてへんかったのやけど、いろんな分野があるゆうてたな。発達心理学とか、何するんか想像できひんわ」 「あー、宮澤先生の?てか、宮澤先生って楢崎教授のとこの助教なのかな?」 「指導教官じゃないの?助教にしては若くない?」  宮澤の話に戻ったようだ。 「何か、楢崎教授と宮澤先生が話し出したら長そうじゃない?話終わらなさそう」  金髪の女が言って、残りの二人が笑った。 「何かでも、宮澤先生、割とイケメンじゃない?」 「えー、あんなんがタイプなん?」 「いやいや、顔だけ。顔だけだから」 「指輪してなかったから独身じゃん?アピっちゃえば?」 「無理無理。デートとかしてても研究の話しかしなさそうじゃん」  三人でキャーキャー盛り上がっている。  残念だな、と思った。人の熱意をそんな風に揶揄いの対象にするなんて。  会話に参加する気になれず、愛想笑いを顔に貼り付けながら何の気もなく反対側を向いた時、すぐそばの丸テーブルに一人で座っている宮澤と目が合って、声をあげそうになった。いくら周りが騒がしくても、この距離なら彼女たちの会話は丸聞こえだろう。  彼は私にいたずらっぽく笑いかけて人差し指を口に当てた。 「はっ」  向かいの眼鏡の女も気づいてバツが悪そうな顔になる。残りの二人も黙ってしまった。 「ごめんごめん、邪魔しちゃって」  宮澤が笑って謝る。 「いいんだよ。今後一緒に大学生活を送る者同士、自由に意見を交換するべきだ。僕も率直な感想が聞けることを期待してここに来たんだからね。悪趣味だと思うかな?人間観察も仕事のうちなものでね」  彼女たちの陰口など全く気にしていないかのように、宮澤は楽しそうに言った。 「ちなみに僕は准教授で、三十五歳独身で彼女もいないよ。確かにデートで研究の話をしちゃダメって言われたらキツいかな」  私の向かいで眼鏡の女が赤面している。 「楢崎教授と話し始めると終わらないっていうのは大正解。素晴らしい推理力だ」  金髪の女に大袈裟に拍手を送っている。皮肉のつもりはなさそうだ。 「君の意見も聞きたいな。さっきの僕の話、どう思った?岸本さん」  名前を呼ばれてギョッとした。 「ああ、君だけじゃないよ。新入生の顔と名前は全員覚えている。横峯さんに、長田さん、藤村さん。大丈夫、評点には響かない。僕にそんな権限ないからね」  宮澤は、私もうろ覚えだった彼女たちの名前をそらんじて、微笑んでみせた。そして、私に視線を戻す。 「それで、君はどう思った?」 「わたしは……」  あまり真面目なことを言って彼女たちとの関係を悪くするのは避けたいし、でも彼の熱意に少しは報いないと申し訳ない気もした。 「怖くなりました。心理学を勉強するの、甘く考えていたというか、全然覚悟とかしていなかったので」  当たり障りのない程度に正直な感想を返したら、宮澤は「そうか」と言って立ち上がった。 「君は、もう少し覚悟した方がいいな」 「……え?」 「じゃ。午後はオリエンテーションだね。楽しんで。履修登録、不備がないように。事務局の人に怒られるの僕だからね」  そう私たちに釘を刺して、宮澤は食べかけのトレーを持って違う席へと移っていった。 「はあ?何かさりげなく岸本さんのことディスってったよね?」  金髪の女が声を尖らせた。 「ね。岸本さんの何を知ってるのって感じ。嫌な感じ」 「前に会うたことあるん?」 「ううん、初めて会ったと思う……」  何だったのだろう、と思った。君は、と彼は強調した。彼女たちと比べて私だけが特別覚悟が足りないとは思えない。私の何かが気に入らなかったのだろうか。仮にそうだとしても、個人的な感情で嫌味を言うような人には見えなかった。 「忘れなー」と、金髪の女が軽い調子で言った。 「そうそう。宮澤先生、絶対変な人だし、気にしてもしょうがないよ」  三人が口々に慰めてくれて、その話はそれきりになった。  午後のサークル紹介は、席が自由だったので千尋と一緒に聞いた。心理学部は可愛い女の子が多いというのがこの大学における通説らしく、熱心な勧誘を受けたけど、どのサークルも私にはピンと来なかった。千尋は手話サークルに興味を持ったようだった。  翌日は健康診断とITオリエンテーションだった。視聴覚室のパソコンを使って、学内システムの利用方法を教わった。帰りに千尋と一緒に教科書を購入して、その分厚さと値段の高さに目を丸くしたりした。  そして、その次の日から講義が始まった。一年目の必修科目には、心理学の基礎を学ぶ心理学概論、心理学研究法、心理学研究によって得られたデータの分析手法を学ぶ心理学統計法、心理療法について学ぶ臨床心理学概論、認知心理学、社会心理学などがある。宮澤が担当する発達心理学も必修で、その授業は無駄に緊張した。また、心理学実験実習が週に一度あり、レポートが課された。教養科目は選択必修であり、外国語や、現代哲学や思想史、政治、経済、物理、化学、生物、数学、スポーツ等といった多岐にわたる分野の選択肢が用意され、その講義は他の学部と合同で行われる。  大学生活はすべてが新鮮で、陽咲と一日に一回はメールをして、父親とは揉めながらも距離感を掴んでいって、こんな日々が続くなら、この先もやっていけそうな気がしていた。
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