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すれ違い
陽咲から電話がかかってきたのは、講義がほぼ一巡した月曜日の四コマ目の授業中だった。教養科目として選んだ倫理のクラスに吉木がいて、憂鬱に感じていたところだった。
授業を抜け出して陽咲からの電話に出た。
『急に電話してごめん。メールしたんだけど……』
スマホから聞こえる陽咲の声は、何かに怯えているようだった。メールに気づかなかったことを詫びる私に、今大学の正門の前に来ているのだと言った。ただごとではないと感じて、「すぐ行くね」と告げて電話を切った。
「帰るの?」
後ろから声がして肩が跳ねた。吉木だった。
「ああ、うん」
何でお前まで抜け出してきたんだ、と心の中で毒づく。
「サボりかー。いーなー。俺も抜けちゃお」
「え、吉木くんは授業受けていきなよ」
「ううん。だって退屈だしー」
吉木と言い合う時間がもったいなくて、それ以上は言い返さず荷物を取りに講義室に戻った。吉木がマチョコと呼んでいる金髪の女がジロリと睨んでくる。
一緒に授業を受けていた千尋に帰ることを伝えて講義室を出ると、吉木と、何故かマチョコまでついてきた。
「ちょっと、何でついてくるの?」
吉木に向かって文句を言った。
「だって、ゆーちんが誰に呼び出されたのか知りたいし」
「カナタくんの妹だよ。吉木くんが会ってもしょうがないでしょ」
「えー、まだあいつと関わってんの?」
「カナタくんとは関わってないよ。妹と仲良いの」
振り切りたくて本当のことを言ったのに、諦めてくれない。
「吉木くんまで来たらヒナちゃんびっくりしちゃうから」
「へえ、ヒナちゃんって言うんだ。長谷川に似てる?」
完全に悪ノリだ。とりあえず放っておくことにした。
正門に行くと制服姿の陽咲が待っていた。その横顔は、どうしたらいいか分からず途方に暮れているように見えた。でも、それは一瞬のことで、すぐに私に気づいて笑顔になった。
「ユメちゃん!……と、お友達?」
吉木とマチョコを見て、戸惑ったような顔で首を傾げている。
「ごめん、この人はーー」
「はい、お友達です」
私の声を遮って吉木が一歩前に出た。
「実はお兄さんの中学時代のお友達でもあります。吉木順平。以後お見知り置きを」
吉木が芝居がかった調子で名乗ると、陽咲は何かを思い出したような顔をした。
「あ、もしかして、チャラ……」
失言に気付いたのか途中で言葉を切る。でも、吉木には伝わってしまったようだ。
「イエス。ここにいるゆーちんがチャラ木と呼んでいた男です」
最悪だ。知らないと思っていた。
「長谷川に似ず可愛いね。さすが女子高生、輝いてるわー」
「そう言う吉木さんもこないだまで高校生だったんじゃないですかー」
陽咲が笑って言い返す。そのノリの良さを見て、メイドカフェで働く姿がやっと少し想像できた。
「いやー、一歩大学に足踏み入れたらもう、ヤバいね。今俺たちの間には明確な線があるわけよ。ヒナちゃんには見えないだろーけど」
吉木が、陽咲との間に空で線を引いてみせる。
「じゃあ、大学行かなかったら一生その線越えずに済むんですか?」
陽咲にそうツッコまれて、
「うわ、こりゃ一本取られたわ」
と、吉木が額に手を当てた。そして、「やばい、この子俺より頭いい」と、わざとらしい真顔を私に向けてくる。そりゃそうだろ、と思った。
「じゃー、俺たちは退散するか。行くぞ、マチョコ」
気が済んだのか、吉木がマチョコの肩に手を掛けて言った。やっぱりこの男は誰にでもそういうことをするんだなと思って、ホッとする反面、また心配になった。
「ごめんね、追い払いたかったんだけど、ついてきちゃって」
邪魔が入ったことを謝ると、陽咲は笑って首を横に振った。
「噂のチャラ木さんに会えて良かった。中学で一年間被ってるはずなんだけど、最後まで分かんなくって」
噂のチャラ木って。私は吉木の話をそんなに頻繁にしていただろうか。
「そういえば、何で吉木くん、わたしが影でチャラ木って呼んでたの知ってたんだろ」
「あはは。聞き耳立ててたんじゃない?チャラ木さんってユメちゃんのことが好きだったんでしょ?」
「え、そんなことないよ。誰が言ったの?」
「兄貴」
そう答えた時、陽咲が一瞬痛みを堪える顔をしたように見えた。
「何それ。違う違う」
短く否定して、その話を終わらせた。
「それより、どうした?何かあった?」
陽咲の顔を覗きこんで問いかける。
「うん……」
陽咲は答えず、私の手をギュッと握った。
「何か、甘いもの食べたい」
「そっか。この辺のお店まだ開拓できてないんだよね。調べてみよっか」
私の言葉に、陽咲がこくりと頷く。
近くに有名なパンケーキ屋さんがあることが分かって、陽咲と二人で向かった。ちょうどおやつ時で、学生のものと思われる列が延々と伸びている。他の店にするかと尋ねたら陽咲が首を横に振ったので、その列に並んだ。
待っている間、陽咲はいろんな話をしたけど、終始どこか上の空で、時々時間を気にする素振りを見せた。何があったのか聞き出したかったけど、自分から話してくれるのを待つことにした。
一時間ほど待ってやっと席に案内された。注文したパンケーキが運ばれてくるのに、さらに三十分くらいかかった。
「うわ、ふわふわ」
一口頬張って、陽咲は嬉しそうな声を上げた。この一瞬だけは、気にかかっていることを忘れたみたいに、あどけない顔になった。でも、すぐに表情を曇らせて、あまり喋らずに食べた。
「今日さ、」
アイスティーのストローを吸った後、陽咲が躊躇いがちに口を開いた。
「ユメちゃんの家に泊まっちゃダメ?」
上目遣いでそう尋ねてくる。やっぱり叶多と何かあったのだろう。
「ごめん。それは、無理」
陽咲が傷ついた顔をしても、それだけは叶えてあげられない。
「うちね、父親が変な人なの。ヒナちゃんに嫌な思いさせたくないから、ごめん」
父親には、娘と同い年の女子中学生を妊娠させた過去がある。たとえそれが合意の上だったとしても、万が一にも危険があるなら、そんな場所に陽咲を連れていきたくない。
「先生、もう帰ったかな……」
陽咲は食い下がらず、ぽつりとそう呟いた。
「四時に来るって言ってたから」
今はもう十七時近い。
「先生に会いたくなかったの?」
言いづらそうにしている陽咲に、水を向けるつもりで尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。
「軽蔑しないで聞いてくれる?」
怯えたような目をしている。頷くと、陽咲はもぞもぞと居住まいを正した。
「あたし、兄貴と二人になりたくなくてさ、友達の家で時間潰してたんだ」
小さな声でそう話し始めた。
「その友達さ、親が忙しくていつもいないんだ。だから、バレないと思ってた。てか、そいつがバレないって言った」
陽咲は落ち着かない様子で、ストローの袋を指に巻きつけたりしている。
「だから、そいつとヤってた。別に好きとかじゃないんだけど、ヤってると落ち着いて……」
陽咲の告白に、血の気が引くのを感じた。
「そしたら、そいつの親にバレた。枕にあたしの髪の毛が残ってて、痕跡も見られたって。問い詰められて、そいつ、あたしの名前バラしたんだ。そんで、そいつの親が学校に電話して、先生がうちに来たってわけ」
「じゃあ、カナタくんが……」
「そう。兄貴がさっきから鬼のように電話してきてる」
陽咲が手元に目を落として言う。テーブルの下に隠していて、私のところからは見えない。
「先生と兄貴、どんな話したと思う?怒られたかな、兄貴。どんな教育してるんだって。親がいないからダメなんだって言われたかな。兄貴は謝ったのかな。いやでも謝るのは変だよね?こっちは女だし、どっちかというと被害者?ああでも、あっちの親、あたしがたぶらかしたとか言ってるかも」
自虐するような笑みを浮かべて、早口で捲したてる。
「しょうがないよね。あたし、こんなんだし。親いないし。兄貴には突っかかってばっかだし。誰も庇ってくれないよね。たぶらかしたつもりはないけど、拒否もしなかったわけだしさ」
千尋の言葉を思い出す。可愛いと言われることで自分の価値を確かめているのかもしれない、と彼女は言った。この子は、好きでもない男に抱かれることで、自分を保っていたのだろうか。だとしたらそれは、あまりに悲しいと思った。
「ヒナちゃん、家に帰ろう」
陽咲に呼びかけた。
「心配してるよ、きっと」
耳を澄ますとスマホの振動音が聞こえる気がした。陽咲は少し躊躇った後、スマホをテーブルの上に置いた。着信画面に【お兄ちゃん】と表示されている。しばらく待ったけど、陽咲が電話を取る様子がないので仕方なく私が出た。
『どこにいるんだ』
叶多の焦った声が耳に飛びこんでくる。
「カナタくん、岸本優芽です」
嫌がられるだろうなと思いながら、渋々名乗った。
「ヒナちゃんはわたしと一緒にいるから心配しないで。今からそっちに連れて帰るね」
少しの沈黙の後、震えるような息遣いが聞こえた。
『うん。お願い……』
その声はとても心細そうで、胸が詰まった。
「大丈夫だから。待ってて」
そう告げて電話を切った。
「怒ってなかった?」
不安そうな顔で陽咲が尋ねてくる。
「怒ってないよ。すごく心配してたと思うよ」
伝票を取って支払いを済ませた。ノロノロと歩く陽咲を何とか駅まで連れていった。
電車の中で、陽咲は吊革に掴まったまま一言も喋らなかった。降りる駅に着いて、覚悟が決まったのか今度は普通の歩調で家まで歩いた。
その足が、家の前で止まった。ガラス戸の前で、足が地面にくっついてしまったみたいに立ち尽くしている。
「ヒナちゃん」
私の呼びかけに、小さく肩を震わせて緩慢な動作で戸を開けた。一歩中に入って、陽咲が再び足を止める。中を覗くと、上り框に叶多が立っているのが見えた。
二階から幸多が「下に行くー!」と叫んでいるのが聞こえる。おそらく新が引き留めているのだろう。
叶多は裸足のままたたきに降りて、陽咲の頬を平手でぶった。パンッと乾いた音がした。
「何でお前まで俺を困らせるんだよ」
ぶたれた頬を押さえて俯く陽咲の肩が、小さく震えている。
「ヒナターー」
叶多が何かを言いかけたのと同時に、陽咲が勢いよく顔を上げた。叶多が動揺したように口を閉じる。
「悪かったなぁ、恥かかして。あたしだって嫌だったよ!兄貴がいる家に帰りたくなかったから、そうやって時間潰すしかなかったんだろ!全部兄貴が悪いんだからな!」
陽咲はそう言い放つと、こちらを振り向いた。目にたくさん涙を溜めている。出ていくつもりかと思って身構えたけど、陽咲は私の手を掴んで家の中に引きいれた。そのまま二階の陽咲の部屋に引きこまれた。
「言ったじゃん。やっぱり帰ってこなきゃよかった」
陽咲は部屋のドアを閉めると、自分の身体を抱きしめるようにしてうずくまった。
「見たでしょ?兄貴、あたしのこと憎くてたまらないって顔してた」
そう言って、苦しそうに嗚咽を漏らして泣き出した。
「ヒナちゃん」
その背中に手を当てて、私はかける言葉を慎重に選んでいた。
「本気で言ってるの?」
私は間違えずに伝えられるだろうか。
「本当は分かってるよね、カナタくんの気持ち」
陽咲は自分の膝に顔をうずめたまま、何も応えない。
「知ってると思うけど、わたしは昔からヒナちゃんのことがすごく可愛くて、いつでも味方でいたいと思ってる」
その前提だけは誤解してほしくない。
「だけどね、それと同じくらいカナタくんも、わたしにとっては大事な友達だから、カナタくんの気持ちを分からない振りしてるヒナちゃんには、腹が立つ」
陽咲がゆっくりと頭をもたげてこちらを見た。不安そうな表情をしている。
「カナタくん、憎くてたまらない顔なんかしてなかったよね。最初からものすごく傷ついた顔してたよね。ヒナちゃんの言葉で、もっと傷つけたよね」
全部兄貴が悪いんだと陽咲が言った時の叶多の顔が、目に焼きついて離れない。彼のあんな顔を、見たくなかった。
「ヒナちゃん、悲しい理由をねじ曲げちゃダメだよ。ヒナちゃんは、カナタくんに嫌われたから悲しいんじゃないよ。カナタくんを傷つけちゃったから悲しいんだよ」
賢い子だから、私に言われなくてもきっとそのうちに自分で気づくだろうけど、それでも口に出さずにはいられなかった。
「……うるさい」
陽咲が、膝に目を落として、唸るように言った。
「ユメちゃんなんか、嫌い。……大嫌い。出てって」
膝にぽたぽたと雫を落としている。ちゃんと分かっている。そう、信じた。
「わたしは大好きだよ。ヒナちゃんのことが可愛くて可愛くてたまらないよ」
彼女の背中にそっと触れて立ち上がった。
「またね」
そう声をかけて、陽咲の部屋を後にした。
一階に降りて叶多の姿を探した。お茶の間にも台所にもいなくて、習字部屋でやっと見つけた。畳に正座をして、壁に貼られた書道作品を見上げている。声をかけたかったけど、邪魔してはいけない気がして、黙って引き返そうとした。
「ヒナタは?」
私の存在に気づいていたようで、叶多がこっちを見ずに訊いてきた。
「泣いてるけど大丈夫だと思う。追い出されちゃったし、わたし帰るね」
叶多に伝えたい言葉はたくさんあるけれど、私の声ではどれも届かない気がした。後ろ髪を引かれる思いで立ち去りかけた時、叶多が再び言葉を発した。
「ヒナタのこと、ぶっちゃった。一生許してくれなかったらどうしよう」
途方に暮れたように、自分の右手に目を落としている。
「カナタくんも分かってないんだね」
思わずそう呟いたら、叶多がゆっくりとこっちを向いた。目が真っ赤で、一人で泣いていたのかと思ったら、胸が痛くてたまらなくなった。
「ヒナちゃんは今だってカナタくんのことが大好きだよ。大好きだから、カナタくんが無理してるんじゃないかってずっと心配してるんだよ」
私も心配だというのは、心の中だけに留めて。
「でも、つい言いすぎちゃうから、それでカナタくんにあまり会わないようにしてたんじゃないかな。あの子は、カナタくんに大事に思われてることをちゃんと分かってるし、だから今回のことで傷つけたのが、苦しくて仕方がないんだよ」
部外者なのにまた出しゃばっている。そう自覚しながら、止められなかった。
叶多は私の話を黙って聞いていた。と思ったら、立ち上がって私の方に歩いてきた。
「どうしたらヒナタは幸せになれる?」
縋りつくようにそう尋ねてくる。私に訊かなければいけないくらい、この人は追いつめられているのだ。
「何であいつは自分を安売りするようなことをするんだ。俺のせいなのか?俺のせいでヒナタは家に帰れなかったのか?俺は、ヒナタに幸せになってほしいだけなのに……!」
涙が頬を流れたことにも気づかないように、叶多は私に答えを求めるのだ。
「ヒナちゃんは多分、カナタくんばっかりが大変な思いしてて、何にもできない自分が悲しかったんじゃないかな」
「そんなこと。ヒナタはよくやってくれてる。ヒナタがいなかったら、俺たちはやっていけてない」
叶多が強く反論してくる。
「そういうことはさ、わたしじゃなくてヒナちゃんに言いなよ」
当事者同士で話すべきだと思ってそう言ったのに、叶多はまるで突き放されたような顔をした。
「あ、ああ。そうだよね。ごめんね、巻きこんで。暗くなるから帰って」
私に背を向けて、涙を拭いながら謝った。
突き放したわけではないと訂正したかった。でも、訂正したところで、どうせ私たちはすれ違い続けるのだろうとも思った。叶多にはもう、私の言葉は届かない。
だから、すれ違ったまま、叶多の家を後にした。
心がずっと、寂しい、寂しい、と叫び続けている。
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