五月の日々

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五月の日々

 それから私は、二、三日に一回くらいの頻度で叶多の家に顔を出すようになった。  日々はおおむね平穏に過ぎていった。  実采の不機嫌はいろいろなことが積み重なった結果のようで、きっかけは、叶多が夜勤を始めて幸多の夜泣きが再発したことらしかった。春休みの間は少しくらい睡眠を妨げられても問題なかったのが、学校が始まってじわじわと寝不足が蓄積されてしまったのらしい。  そして、五月の連休の前半に兄弟全員で叔母さんの家を訪ねた時に、何か困っていることはないかと訊かれた実采は、幸多の夜泣きがうるさいと正直に答えて、新に黙ってろと怒られるわ、知らなかった叶多に問いただされるわ、問題視した叔母さんが叶多を責めるわで、大騒ぎになってしまったのだそうだ。それで、自分がとんでもなく悪いことをしてしまったような気になって、いじけてしまったのだと、陽咲が教えてくれた。  また、幸多の夜泣きを知った叶多がそれまで以上に幸多に構うようになったのも気に入らず、連休の後半は熱を出して楽しみにしていた水族館にも行けず、すっかり不機嫌になってしまったのらしかった。  ただ、叶多に言わせると実采の不機嫌は今に始まったことではなく、一年前に幸多が叔母さんの家に預けられていた間は兄と姉に構ってもらえたのに、幸多が戻ってきてからは注目を独り占めできなくなって、それ以来ずっと拗ねているとのことだ。  それでも、曇りの日の晴れ間のように、実采は私に向かって不意に笑いかけてくることがあった。笑うと目尻が下がって口元ににえくぼが浮かんで、下の歯が抜けているのも相まって、とても愛らしかった。それだけでなくて、実采は笑うと昔の叶多にそっくりで、なおさら私は実采が可愛かった。叶多は以前ほどは私によそよそしくなくなったけど、妹や弟たちに見せるような笑顔を、決して私には向けてくれなかった。実采に笑いかけられると、その寂しさが紛れる気がした。  私の思いが伝わっているのか、実采は私に甘えた。私の膝に座って、日々の出来事を話すのを好んだ。最初のうちは遠慮がちにお尻を乗せるだけだったのが、次第に気を許したようで、背中までべったりと預けてくるようになった。ドッジボールで最後まで残ったとか、上の歯がグラグラだとか、誰々が誰々に意地悪したからケンカしたとか、そんな話を、台所で晩ごはんを作る陽咲の後ろ姿を眺めながら、ゆっくりと聞く時間を過ごした。 「いいなあ」  時々そこに叶多が乱入して来ることがあった。 「ちょっと貸してよ」  そう言って実采にちょっかいをかける。そうすると実采は毎回慌てたように、 「兄ちゃんは大人だからダメっ」 と、誰も狙っていないのに私の膝にしがみつく。そこから二人のじゃれ合いが始まって、最終的には叶多が実采を抱き上げて、思いっきり甘やかせてやるのだった。だから本当は、叶多の『貸してよ』は、私に向かって『ミコトを返してよ』と言っているのだ。  叶多は、妹と弟の一人ひとりをとても大切にしていて、それを表現するように努めていた。  陽咲のことはもう安心だと思ったのか、心配の対象は新に移ったようだ。新が何に興味があって将来どうなりたいと思っているのか分からないと、陽咲にこぼすのをよく耳にした。  新は、いつも静かだった。時々実采をたしなめることを除いては、大きな声を出すことも大笑いすることもなく、何の感情も見せなかった。  幼少の頃の彼の活発さを知っている私としても、新のことは気がかりだった。新が髪を切ろうとしないことは、円形脱毛症が改善してないことを示唆していた。でも、私には挨拶を交わすのが精一杯で、どうしても新との会話の糸口を掴むことができなかった。  大学の授業は、心というよりは脳や知覚器について生物学的に学ぶものが多く、宮澤が覚悟をしろと言ったような、自分の内面と向き合わされることは、まだ無かった。  授業の内容は、専門用語を暗記しなければいけない大変さは別として、自分の身に置き換えてみればすんなりと理解できるものが多かった。  ただし、【記憶の変容】だけは例外だった。  研究によれば、記憶が事実と違うように変化してしまうことが、健康な人の脳でも起こるという。その変化の種類は、出来事が起きてからその記憶が定着するまでの段階のうち、どこで起きたかによって三つに分類される。一つめは、記憶が刻まれる際に、誤認識などによって事実とは異なる記憶が形成されるというもの。二つめは、出来事が起きてからその記憶を取り出すまでの間に与えられた関連情報が、何らかの形で元の記憶に影響を及ぼすというもの。三つめは、記憶を想起する際に、辻褄が合うように常に記憶の再構成が行われるというものだ。一つめと二つめはまだ理解できるけど、三つめは、感覚的に受け入れられなかった。  もしも、思い出す度に記憶が変化してしまうのだとしたら、私が持っている思い出と、叶多が持っているそれとが、全く異なってしまっていることもあり得るのだろうか。講義を聞きながらそんなことを考えて、どこまでも寂しい気持ちになった。  千尋は手話サークルに入って、指文字という、あいうえおの五十音に対応する指の形を覚えるのに必死だ。大抵の言葉にはそれを表す手話表現があるのだが、固有名詞や新しい言葉の場合は、指文字を使って表すことがあるという。この指文字は、手話表現を覚えていない、あるいは忘れてしまった場合にも役に立つので、初心者は指文字から始めることが多いのだそうだ。  千尋は、聴覚障害を持つクライアントとも向き合えるカウンセラーになりたいと言う。彼女を見ていると、将来のビジョンもなく何の努力もしていない自分は、本当にダメだなと思う。千尋は私にカウンセラーが向いているのではないかと言ってくれたけど、父親と話す度に自分の器の小ささを思い知らされる。  父親の言動の一つひとつに、いちいちイライラしてしまう。  食事ひとつとっても、父親は何回言っても作りすぎてしまうから私が夕飯を担当することにしたのに、連絡もなく外食してきたり、気まぐれに私の分まで買ってきたりして、何度も食べ物が無駄になった。それで各自で食事を用意することにしたのだが、私が台所で作っているところに後からやってきて調理スペースを占領したり、私が買ってきた食材を断りもなく使うので、怒鳴りたくなってしまう。  食事だけではない。好きな時間に寝起きして、私が寝ていようが平気で大きな物音を立てるし、私がお風呂に入っていようが着替えていようが、構うことなく脱衣所に入ってきたりする。  それらの行為に対して、やめてほしいといくら言っても聞いてくれない。その場では謝るけど、次の日になれば忘れている。私が本気で迷惑していることを理解していないのだ。同じことをやり返してやろうかと何度も思っては、自分の器の小ささを自覚して落ちこむことを繰り返している。  恵梨香は、五月半ばの日曜日の昼下がりに、蓮哉を連れてやってきた。父親とは子供の認知だけで婚姻関係を結んだことはなく、蓮哉を定期的に会わせるような取り決めは無いはずだが、蓮哉をダシにして月々の養育費とは別に父親から少しでも多くのお金を巻き上げようとしているのだ。 「お金、足りないの」  蓮哉が父親に向かってそう言った。恵梨香は澄ました顔をしている。四歳にもならない子供にそんなことを言わせるなんてと愕然としていると、父親が私の顔をじっと見てきた。 「五万、いや、一万でいい」  先月私の十万円を勝手に渡したことなどすっかり忘れたかのように、平然と要求してくる。 「無理だよ」  うんざりしながら断った私に、恵梨香が家賃の話を蒸し返してきて、ますますゲンナリした。しかも、今回は家賃の話だけでは済まなかった。 「離婚しなかったんだから、ヒロアキさんにはマサミさんの遺産の相続権があるはずでしょ?それはどうなってるわけ?」  父親に訊いても無駄だと知っているようで、私に尋ねてくる。なぜ恵梨香に説明しなければいけないのだろうと思ったけど、それで納得するならと正直に答えた。 「お父さんは分かってるはずだけど、この家をお父さんが相続することで話がついたって聞いてるよ。ここ、お母さんが買ったんだよね?」  睨みつけるようにして同意を求めたら、父親はオロオロしだした。 「む、難しい話はよせよぉ。エリカが可哀想だろぉ」  諌めるような口調で言ってくる。まるで私が悪者みたいだ。 「金に困ってるっつってんだからよぅ、ちっとぐれぇ分けてやってもいいだろぉ」  私の家なのに、ここに私の味方はいないのだ。 「ちょっとぐらいってーー」 「じゃあさ、」  私が言い返そうとしたのを、恵梨香が涼しい顔で遮った。 「ヒロアキさんがこの家を売ろうが何しようが、ユメちゃんには関係ないってことだよね?前からこんな立派な家にいつまでも住んでることないじゃんって思ってたんだよね。さっさと売らせてアパートでも借りさせるわ」  正しいことを言っていると信じこんでいる様子の恵梨香に、狂気に近いものを感じる。 「おいおい、それだけは勘弁してくれって言ってるだろぉ。この家にはマサミとの思い出がいっぱいあんだよぉ」  途端に慌てだした父親を見て、恵梨香は大げさなため息をついた。見下すような目をしている。 「死んだ奥さんとの思い出と、息子のレンヤの将来、どっちが大事かヒロアキさんでも分かるでしょ」 「そんなこと言ってもよぉ」  恵梨香の目がキッと釣り上がるのが分かった。 「いい加減にしてよ!あたしだってユメちゃんみたいに大学行って遊びたかったよ。ヒロアキさんみたいな馬鹿な大人に引っかかんなかったら、レンヤなんか産まないで済んだのに!」 「エリカちゃん」  私が彼女の名前を呼んだのと、父親がコップのお茶を恵梨香の顔にかけたのは、ほとんど同時だった。 「何すんの!」 「それだけはぁ、言っちゃいけねぇだろぉ!」  そう怒鳴った父親は、顔を真っ赤にして、肩で大きく息をしている。 「し、信じらんない。クリーニング代払ってもらうから。行くよ、レンヤ」  父親の剣幕に恐れをなしたのか、恵梨香は蓮哉の手を取って、逃げるように家を出て行った。  恵梨香は激高した父親を初めて見たのだろうか。私にとって、こんなことは日常茶飯事だった。父親にはいろんな場所に地雷があって、お母さんがそれを踏む度に怒鳴っていた。地雷を取り除こうと突っかかるお母さんに、手をあげることもあった。  そんな時、私は自分の部屋に行っているように言われて、本を読みながら時間が過ぎるのを待った。アガサ・クリスティの推理小説は、そんな時に読んでいたものだった。父親が逆上すると、お母さんはますますヒートアップした。言葉で敵わない父親がお母さんをいつか殺してしまうのではないかと恐ろしくて、でも自分はあまりにも非力で、そんな夜はどうしても寝つくことができなかった。 「自分の母親のことでも思い出した?」  テーブルにこぼれたお茶を布巾で拭きながら、父親にそう尋ねた。 「お父さんも子供の頃、産まなきゃ良かったって言われてたの?」  やめなさい。そんなお母さんの声が聞こえた気がした。でも、おそらくこれは、空の上からお母さんが警告を発しているわけではなくて、私の恐怖心が生み出した幻聴だ。父親に殴られるかもしれないと思うと、身体が震えた。  父親がこちらを見たのが分かった。怖くて目を合わせられなかった。地雷を踏みに行ったことを既に後悔していた。私はただ、ムカついてやり返したかっただけだ。お母さんみたいに、父親のためを想って言ったのではない。 「おう、悪いなぁ、茶ぁこぼしてぇ」  それは気の抜けた声だった。拍子抜けして父親の方を見ると、感情が抜け落ちたような目をしている。 「……うん。大丈夫」  途轍もない罪悪感が胸の中に広がった。ごめんなさい、そう謝りたかったけど、喉の奥につっかえて声にならなかった。  お母さんからよく聞かされた。お父さんは悪い人じゃないのよ、と。親から愛されなかったせいで人を愛することに不器用なだけなのよ、と。父親は自分のことをあまり話さないけど、子供の頃ネグレクトを受けていたのだろうとお母さんは言った。母親が家を出ていってしまって、家賃が払えずにアパートを追い出されて、しばらく路上で暮らしていたこともあるという。  そんな人に向かって、私はひどいことを言った。実の娘なのに。心について学んでいるのに。 「仕事変えるかなぁ」  気にしていないのか、気にしないふりをしてくれているのか、父親が頭の後ろで手を組んで呟いた。 「お父さんは夜勤とかしないの?」  罪悪感から相談に乗る気になってそう尋ねた。叶多のように深夜労働をすれば、夜勤手当てが出て少しは収入が増えるのではないかと思ったのだ。 「夜勤はきちーからなぁ。やったことはあるけどよぉ、しんどくてすぐにやめちまった」  もう二度とごめんだというように顔をしかめている。 「そうなんだ。何がキツいの?働く長さは変わらないんでしょ?」 「そうなんだけどよぉ。やっぱ人間てのぁ、朝起きてぇ、夜寝るようにできてんじゃねぇかぁ?」 「ふぅん」  そしたらやっぱり叶多は無理をしているのだろうか。そう思って、またムクムクと心配になる。  父親はノソッと立ち上がって、リビングを出て行った。そして、何も言わずに家を出ていった。本当に自由な人だなぁと、窓からその姿を見送りながら思った。
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