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 許さないってことは、その物事と決別せず、ずっと嫌なまま過ごすということだ。それでも、私はあの男を許す気になれなかった。許さないことで、自分を救っていた。 他人は言うだろう「今は無事で、いくらでも明るい未来が待っているのだからもういいじゃないか」と、何も知らない奴らはきっとそう言うだろう。私が事件を起こした後、ネットでそんな風に能弁を垂れる輩が現れ、正論として評価を得るだろう。だが、正論じゃないのだ。時間が経っただけで無事じゃない。今のまま明るい未来へ足を進めるわけにいくか。忘れることはできる。事実をなかったものと捉えることもできる。しかし、一度心に刻まれた惨めはなくならない。一生心の持ち主を苛む。惨めさを抱えたまま歩める明るい未来などない。  奈良真紀という自分の名前を、あの男は覚えてはいるはずだ。だからバイトに応募する際、真紀は苗字を変えて応募した。そもそも個人経営の廃れた喫茶店だ。バイトの面接もほぼ雑談であったし、履歴書も必要なかった。喫茶店のマスターは白髪と白髭が良く似合う、穏やかでおしゃべり好きな老人で、住宅街の傍で三十年以上喫茶店を経営してきたそうだ。 「いやぁ、こんな若い子が応募してくれるなんて思ってもみなかったよ。採用しておいてなんだけど、本当にこんな廃れた店でいいの?」 「廃れたなんてそんな・・素敵なお店で、どうしてもここで働きたかったんです。採用してもらえて幸せです」  ちょっと大げさすぎたか?真紀は心の中で冷や汗をかいたが、マスターは嬉しそうに顔をほころばせた。マスク越しでも、微笑んでいるのが雰囲気でわかる。ダメ押しで「コーヒー、好きなんです」と付け足す。本当はコーヒーも喫茶店にも興味がない。ひっそりと店の窓に求人を貼りだしていたこの店に、わざわざバスに乗って働きに来ると決めたのには理由があった。 「それじゃあ、改めて今日からよろしく頼むね。あと5分で開店だ」  マスターはそういうと、いそいそと看板を表に出しに行った。いずれはそれも自分の仕事になるのだろう。真紀は気を引き締めた。  寂れているものの、住宅街の近くにあるおかげか、近隣住人がちらほらと来店していた。どの客もマスターと顔見知りのようで、マスク越しに笑顔を交わし、真紀を見て目を丸くした。 「まあ、まさかマスターのお孫さん?」 「ハハハ、違いますよ。アルバイトの子」 「よろしくお願いします」 「おおマスター!前に言っていたアルバイト、無事決まったんだね」 「そうなんだ。もう歳だから一人でやっていくのが厳しくてね、助かるよ」 「よろしくお願いします」  そんなやり取りを何回か繰り返した。人見知りの真紀にとって、好奇の目が集まるのは苦痛だったが、何でもないように笑顔を振りまいた。真紀は古い壁掛け時計に目をやる。日曜日の午後三時、前に奴を見かけた時は平日の今頃だった。なんの仕事をしているか知らないが、日曜日も同じようにやって来るだろうか・・。  その時、入口の戸についた鈴が鳴った。振り向いて、「いらっしゃいませ」と声を上げようとした真紀は、入って来た客を見て肩をこわばらせた。 「きたよマスター」 「おお、きよしくん」  若い男がカウンター席に座った。マスターは嬉しそうに男を迎え、注文を聞く前にコーヒーを淹れ始めた。 「あれ、新しい店員さん?」  男がこちらを見て言った。途端に猛烈な不安に襲われた。気がつかれたらどうしよう? 「そうだよ。今日から働いてもらってるんだ」  マスターの説明に男はへえと頷き、真紀をじろじろと見た。初対面で人を品定めするような目を向けてくる品の無さ、まともな社会人のような顔をしているが、本質はあの頃から変わらないのだろう。真紀の不安は鬼火のような怒りに移り変わっていった。この男、相川ひとしは真紀の正体にまるで気がついた様子がない。当然と言えば当然だ、相川と同じ高校に通っていた頃の真紀は巨大な黒縁メガネをかけ、くせ毛の黒いショートカットだった。今はコンタクトをつけ、髪の毛はブラウンに染めて縮毛矯正をかけ、肩につく程度に伸ばしている。おまけに常にマスクをしているから、バレる心配はほとんどない。 「よろしくお願いします」 「俺と同い年くらいですよね?以外だなぁ」 「コーヒーが好きなんです」  本日何度目かのお決まりのやりとりを、相川とも交わした。この店で初めて相川を見た時は、ショックで動悸が収まらなかったが、今は不思議と落ち着いていた。あの頃と違って、今の自分は覚悟を決めて計画を実行しているからだと、マスクの下で不適な笑みを浮かべる。  許さない。相川ひとし、この男だけは絶対に許さないと決めた。真紀はコースターお冷を、すべり込ませるように相川の前に置いた。
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