ダメ

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 ふつうの、どこにでも転がっていそうな社内恋愛だった。  就業中にふとお互いの目が合って、その目を何気なく逸らした後ほんの少しだけ気になった。飲み会で隣同士になって肩が腕に触れて、他の人より多めに話した。同年代数人でのランチやディナーが、その回数を重ねるうち彼と私の二人だけになっていた。休日に会う約束が順調に交わされ、何回目かのデートに日をまたぐ運びとなった。  社会人同士だ。学生時代に経験したような、好きだの付き合いたいだのといった告白はなかった。それでも、はっきりとした言葉がなくても信じられる程度には彼の態度は誠実で、私が二人の関係の在り方を不安に思うことはなかった。  ただ、納得できず気になり続けていたことはあった。何故、彼は私を選んだのだろうか。  彼の所属は花形部署にあり、その中でも彼は若いながらに優秀と評価される社員だった。その上、じゅうぶんに見栄えのする容姿を持ち性格も明るく社交的、悪い噂にも縁がなかった。  そんな、女性社員の間では優良物件とも評されていた彼、直接話してみれば案外人並み以上に上昇志向が強くプライドも高い彼が何故、さして注目されることもない脇役然とした私を選んだのだろうか。  理由を知りたかった。反面、彼の口からどんな答えが返ってくるのか知るのは怖かった。ただ、やっぱり聞かずにはいられなくなり、渋滞にはまった車中の助手席で不自然につっかえながら切り出した。  彼は私と目を合わせることなく、遠くフロントガラスの先を見たままで答えた。 「許可とってくれるでしょ?いちいちその都度。『お時間いいですか?』とか『お願いしてもいいですか?』とか。『またお電話していいですか?』とか『お手伝いしてもいいですか?』とかね。そういうとこ、いいと思ったんだ。俺、きょうだいが姉二人で図々しい女に囲まれて育ったから、余計ね。うちの部署の女性らも姉たちと似たようなもんだし」  最後の一言には同僚たちへの遠慮から彼と一緒になって笑うこともできず、口角を僅かに引き伸ばす反応しか返せなかった。  てっきり、卑屈なことを聞いてくるなと窘められるのかと思っていたのが、そうはならずに安堵した。そうしてから、気が付いた。私は本音では彼に窘められ、そのままの君が好きなのだと告げられ安心させてほしかっただけなのだと。  その日を境に少しだけ二人の関係は変わった。ただ、そう感じていたのは私だけかもしれない。彼の方は変わらず、私の彼に対する態度のみが変化しただけだったから。  私はそれまで以上に、何か行動を起こそうとする都度彼に伺いを立てるようになった。会社でも実家でも常に下っ端の立場だった私にとって、その手間はさして苦ではなかった。とはいえ、私的な面ではそもそも対等であった筈の彼との間に上下の差が出てしまったことをこっそり残念には感じていた。  そう感じていたなら、もっと彼の前で自由に振る舞うべきだったのかもしれない。ただ、そうして彼に嫌われるのは厭だった。もしかしたら、彼の理想の彼女を演じることに酔っていた部分もあったのかもしれない。「いい物件捕まえたね」と周りから冗談半分本気半分に言われ、彼を逃してはならないと妙な下心が働いていたのかもしれない。  私の中でどんな考えが渦巻こうと結局、終わる時は案外呆気ないものだった。  それは、いつもと同じ彼と私二人の週末だった。デートの帰り、いつも通りに彼の車で彼の住むマンションに着き彼の部屋に上がった。  「どうぞ」と通された玄関で私は彼の方を見もせず聞いたのだ。 「洗面台借りていい?」  もう何回も繰り返されていたやり取りだった。だから私の足は彼の返事を待たず、もう幾たびも借りた洗面所の方向に既に向いていた。 「ダメ」  私は彼の前ではいつもその表情である半笑いを浮かべたまま、彼を振り返った。思っていた通り、そこにはお道化た笑顔あった。ただ、予想に反し彼の唇は続きを何も紡がなかった。 「えっと……」  あまり良くない間を埋めたくて、私は馴れ馴れし気な高い声で彼に再度尋ねた。 「洗面台、使っていい?」 「ダメ」  何か理由があるのかもしれない。水道の蛇口が不具合を起こしていたり、洗面所が使用済みの衣類で散らかっていたり。こちらがそんな理由を探すことが如何に無駄であるか、彼の表情を見れば一目瞭然だった。  とうに成人を過ぎた男の顔面に貼り付いていたのは、小学校に上がる前の小さな子供が浮かべるような残酷で幼稚な笑顔だった。私に許可を出さないことを、彼は心から楽しんでいる様だった。  私は、どうすればよかったのだろう。  自分の顔全部、耳や首まで赤く染め上げればよかったのだろうか。  眉尻を下げ上目遣いで彼を見つめればよかったのだろうか。  この瞳を潤ませ唇を窄ませればよかったのだろうか。  どれか、またはすべてをやってみせれば彼との関係は続いたのかもしれない。私には無理だった。私は、もうすっかり冷めてしまっていた。
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