窒息

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 結婚を明日に控えたとある日、形容しがたいモヤモヤに(さい)なまれた(しほ)は、捌け口を求め海に来ていた。  「お別れね」  波打ち際で、誰にともなく呟く。  月夜の海は無人で、当然答えも返ってこない。  汐に応じてくれるのは、さざなみだけだった。  彼女は構わず、沈黙を突き破るような大声で叫ぶ。  「私だって、本当は変わりたくなかった! 可愛らしい乙女でいたかったよ! でも仕方がなかったの! いつまでも夢見てちゃ世間は許してくれないし、親も会社のクソジジイも人の気なんて知らずに、結婚はまだ? なんて、挨拶のように無遠慮に私情に入り込んでくるから嫌になるわ! 他に話題がないならそのままほっとけバーカ!」  醜い言い訳、汚い言葉は波音がさらってくれた。  体が内側から温まってきたところで、汐はすぅっと深く息を吸う。  「まあ、私、結婚するんだけどね。やーっと解放されるわ。次は孫とか子どもとか話題がすり替わるだけなんだろうけど……。相手は私にはもったいないぐらい、明るくて良い人なんだよ」  したり顔で水平線を見ると、『あの子』は笑ってくれていた――というか、それ(笑顔)しか覚えていないから当然なのだが。  もはや今となっては取り戻せない、純粋なあの子のほほえみを思い出して願う。  「どうか、何も知らないままで眠っていて」  『おれたち、けっこんする?』  『うん、する!』  保育園の同級生だった、名前の漢字もわからないケンイチ。28歳になった今でもこのやりとりだけ、鮮明に覚えている。  ケンイチは卒園前に親の都合で県外に引っ越してしまい、連絡先も行き先も知らず結局はそれきりだった。  所詮はなんの効力もない、よくある子どもの口約束だ。  だが長年良き出会いに恵まれなかった汐にとってケンイチとの古い記憶は、唯一誇れるドラマチックな思い出だった。    「――今まで、私の支えでいてくれてありがとう、ケンイチ。お前も幸せになれよ!」  もしかしたらとっくに汐より幸せになっているかもしれない彼に、余計なエールを送る。  ――さようなら、私を支えてくれた美しい記憶。  汐は満足気に、寛大な海へと淡い初恋を沈めたのだった。  
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