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 通勤ラッシュといっても大都会ではないから、乗客同士の間にはわずかに隙間がある。郊外のニュータウンと女子校に近い駅の間がひときわ混み合うが、身動きできなくなるほどではない。  誠一郎は特徴のないビジネススーツを着て電車に揺られている。高級感もなく、安っぽくもない、地味でも派手でもない、真新しくもなく、くたびれてもいない、そういう服装だ。  スラックスの前ポケットには事務用のカッターナイフが入っている。  これもどこにでも売っているありふれたものだ。刃の出し入れ時にほとんど音がしない、それが少し特徴的ではあるが、そんなことは誰にもわからないし、誰かに気に留められたこともない。    ニュータウン駅前で電車の扉が開く。乗り込んでくる乗客の半数ほどが学生で、学生のうちの七割ほどが女子だ。  探す手間も近づく必要もない。  セーラー服を着た少女が目の前、やや右側方に立ってつり革を掴む。その背後に、油っぽい臭いのする四十代ほどの男が立っている。  良くない気配を感じた。  横からの視線を塞いでくれるのはちょうどいいが、それ以前の問題だ。    カーブに差し掛かった。横向きの重力を受けて、乗客たちが揺れる。油臭い男は、そのタイミングで動いた。  足元がふらついたような動きをして、偶然のように少女に密着する。少女の顔がこわばり、青ざめる。  少女のスカートの表面で油臭い男の手が上下している。手そのものは近すぎて見えないが、肘のあたりの動きでそれがわかる。  誠一郎はよろめいたふりをして男の足を踏みつけた。  油臭い男の濁った目が彼を見た。  怒りと怯えが入り混じった表情。  無感情にその目を見返すと、男の中で恐怖が勝ったのがわかった。  次の駅で油臭い男は降りた。  少女が誠一郎の顔にちらりと視線を投げたようだが、それには目を合わせなかった。  高校前で、少女は電車を降りた。  誠一郎は何駅かそのまま乗って、特徴のない駅で降りた。    くだらない男に邪魔をされた。  そういう怒りが腹の底で渦巻いていたが、顔にも仕草にも出さない。  誠一郎の趣味は、満員電車の中で少女の制服を切り裂くことだ。  肌には傷一つつけず、気づかれもせず、制服のスカートだけを、腰から裾まで切り裂く。それ以上のことは何もせずに電車を降りる。  ささやかで無害な趣味だ。ただ、少女が事態に気づいたときの恐怖を想像して楽しむだけだ。  誠一郎はこの趣味を続けるためにコストをかけ、努力と研鑽を重ねてきた。  あんな杜撰な痴漢をする男とは違うのだ。  誠一郎は、自分の怒りを正当なものと信じ、少しも疑っていない。    駅前は古びたアーケードのかかった寂れかけた商店街だった。店の半数ほどは、シャッターが降りたままだ。時間が早いためか、そもそも営業をやめているのか、判断がつかない。  明確な行き先があるかのように、誠一郎は歩いた。   スーパー。青果店。少し高級そうな製パン店。  誰かに名前を呼ばれた気がした。  振り向いたが誰もいない。  骨董店の前だった。  店先に、大きな壺があった。  特に値打ちのあるものには見えない、素焼きの壺だ。  歩き続けた。  パチンコ屋。昭和じみた喫茶店。刃物店。作業服店。  街路が途切れ、交差点にさしかかった。  信号機の足元に、壺があった。  骨董店の前で見たものとそっくりだった。  信号が青から赤に変わる瞬間、また呼び声が聞こえた。  振り返らず、立ち止まらず、左に交差点を折れて住宅街に向かった。  来たことのない町だが、奇妙だった。  どの家の前にも、あの壺があった……
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