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残響めいた耳鳴りだけを残して、いつのまにかサイレン音は消えていた。
普通でない重力の感覚に、啓吾は咄嗟に目を開いた。
足元が滑る。滑り落ちている。白い砂のようなものの上。すり鉢のような地形の、その底に向かって。
正面に人の姿が見える。特徴のない黒いビジネススーツ。右手に握られた光るものは刃物か。自分と同じように白いものの上を滑り落ちていた男の動きが変わる。螺旋を描くような軌道でこちらに向かって走ってくる。
明確な殺意。
啓吾にはそれが分かった。
逃げようと思った。
だが、すり鉢の斜面はきつい。加えて足元は滑りやすい砂のような何かだ。
白いものを踏み砕きながら横向きに走り出すが、すり鉢の底に引き込まれる。結果、スーツ男と同じ下向きの螺旋を描くほかなくなる。
それはつまり、どうあがいてもスーツ男との距離が縮まっていくということだ。
「殺しなさい」
耳元で人形めいた女の声がする。
走りながら振り向く。女の姿はない。耳元に浮かんでいたのは、エナメルめいて輝く浮遊する球体だ。
殺せる気はしない。子犬は何度も殺してきたが、殺意をもって向かってくる人間を相手にしたことなどない。
だが、他に選択肢があるか。
男との距離はもう五メートルほどしかない。
男の右手に揺れているのは、刃渡り50センチほどの短刀。投擲されれば確実に届く。
咄嗟に、盾に使う程度のつもりで、耳元のエナメル球を掴んだ。
思いがけず、それが変形する。
十手のような鉤型の枝がついた30センチほどのナイフ。
スーツ男が加速する。刺突の構えをとる。
啓吾は前転するように下方に身を投げる。
すり鉢の底で啓吾は立ち上がった。
スーツ男はまっすぐ向かってくる。
覚悟を決め、啓吾は武器を構えた。
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