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抜けた棘
それは、長い長い記憶だったはずだ。
結婚して、もう四十五年経つ。
記憶の密度は粗くなり、思い出ないことも多くなってきた。きっと妻にとっても同じだろう。けれど、思い出すことなど二度とない記憶であっても、妻にはその終わりの時まで、持っていてほしい。
若い妻も愛おしかったけれど、いつかは元に戻ると信じていたからこそ。
花を咲かせたまま眠る妻の側で、首を垂れて祈る。だが、体の苦痛に負けて、朦朧としていたらしい。
その俺に、だれかの手が触れた。
「旦那様」
軽やかな声ではない。ほんの僅か低く、まろやかになった、妻の声。
「……メルガレーテ」
すっかり髪は白くなり、頬はすこしたるんと、目尻は下がって皺が寄ったが、今でも美しく愛おしい茶色の瞳が、優しく俺を見つめていた。
「旦那様がいないと思っていたけれど、ずっといたのね、老医師」
「ああ、いたな」
「すっごく過保護だったわよね、老医師ったら」
「姿は若返っても、元はあなただ。無理をして後で何かあったら困る。苦い珈琲を飲むと胃が痛くなると言っていたし、動きすぎて骨を痛めたら事だ」
「うん。ごめんなさいね、旦那様のことわからなくなっちゃって」
ぐっと俺の喉が鳴った。
「……いいさ、こうして、戻ってくれた」
「そうね。そう、たぶん、戻れたのよね?」
妻が、ゆったりと首を傾げて、魔女オニキスを見た。
若返っていた間の記憶は、しっかりとあるらしい。
「ええ、奥様。このように、魔女の種から生えた若木も枯れてしまいました。無事、人にお戻りですよ」
その手が握るのは、萎びた木の根のような。
おそらく妻の胸から生えていたあの枝だろう。花はすっかり茶色く縮み、誰からも忘れ去られて乾涸びた、寂しい遺骸のようだった。
***
「いやー、魔女さんのおかげで事が収まって、よかったよ。母さんが若返ってすごい、なんて妹は目が爛々としてたけど。母さんはなんだか前よりぼんやりしてたし、見た目は若返っても頭はボケちゃってたら、世話ないよなあ。
なにより、親父が見てられなくてさ。若かりし頃は浮気疑惑があったって噂は聞いたことあるけど、親父は母さんにベタ惚れだからなあ。
絵面だけ見ると、若い女の世話を甲斐甲斐しくするじじいだったのが、オレとしては衝撃というか」
先ほどまで記憶になかった私の息子が、べらべらとしゃべる。
自慢の子ではあるけれど、四十を目前にこの無神経ぶりはいただけない。もう妻も成人間近の子もいる立派な男性だから、私からの説教はこらえておくけど、後で義娘に言いつけることにしよう。
でもなんだかんだと言いながらも、母親を心配をして、救いの手立てを探し回ってくれていたらしい。魔女オニキスを離れた王都からこの家まで、自ら最速で送り届けてくれたらしいので、感謝している。
旦那様に似ず肉体派の息子は、領主様とご友誼があるという王太子殿下に引き立てていただいて、今や王宮騎士団の副団長。本当は忙しいはずなのだ。
「親父が思い余って若い母さんに手を出す前になんとかなってよかっ」
けれど、それとこれとは別だ。
私は息子の言葉を遮って、その耳をグイッと引っ張った。いてて、と降参した息子は、こころなしか嬉しそうだ。
騎士団では、耳も鍛えられるのかしらね。
どうしてこのムキムキの息子を旦那様だと思ったのか、今思えば、とても不思議だ。
「しょうもないことを言っていないで、オニキス様をおもてなししてちょうだい」
「え、オレが?」
「……主人代わりに差配してよ。あなたのお父様はお休みだもの。実働は……彼女に頼むわ」
そういえば、若返っていた私にとっての見知らぬ年増の女性とは、子供が生まれてから雇い、ずっと働き続けてくれているメイドだった。忘れてしまっていたとはいえ、失礼な態度をとってしまった。
私はメイドを呼び寄せて、食事とお部屋を用意してもらいたいと頼んだ。
「私、あなたがわからなかったなんて。気味も悪かったでしょうに、お世話をありがとう」
「そんな、昔の奥様にお会いできて嬉しかったですよ。それに、なんだか奥様、前よりお顔が晴れ晴れされてます。お食事とお部屋、お任せください」
はきはきと言って、オニキス様と息子を案内していってくれた。
明日は、きっと領主様から使者をいただくだろう。失礼のないよう、寝台から出て夫と一緒に出迎えたい。娘だって、近いうちに事情を聞きにやってくるはず。賑やかな子だから、こちらも心構えが必要だ。
それに、魔女オニキスのために、やるべきことも。
だから、今はまず、休まなければ。
私は寝台にぐったりと体を倒した。
隣には、私が目覚めて安心した途端に限界を迎えた旦那様が、赤い顔をして、ふうふうと早い呼吸で眠っている。オニキス様は、明日には回復するから心配ないと言っていた。
何十年も、この広い寝台で毎晩二人で眠っていたのに。
忘れてしまって。当然の顔で寝台を独り占めして。隣に温もりも気配もなくて。それは寂しくもなるわよね、などと考えて。
そのまま、すとん、と眠りに落ちた。
暖かくて優しい、羽毛のような眠りだった。
「魔女は、自分の見た目を変えて、普通の家庭に入り込むことがあります。ご夫君の妹のふりをして家族に潜り込んだのでしょう」
翌日の、昼の光が燦々と差し込むダイニング。
淡々と話しながら、魔女オニキスは、テーブルに並ぶ十人前はある食事を見る間に平らげていく。いや、フードは被ったまま、その影に吸い込んでいるように見える……。
「魔女はなぜ、そんなことを?」
「さて。そんなことをする魔女は、稀です。同じ魔女でも、頭の中まではわからない。気まぐれか、仮初でも愛情を得たいのか、性癖か。
ただ魔女仲間からは、それくらい前に王宮で大騒ぎを引き起こして逃亡したままの魔女の話を聞いたかもしれませんが。興味がなくて」
世の中、知らなくていいこともたくさんありますので、と魔女は鶏肉の塊を三個、フードに突っ込んだ。
「おおかた、違和感なく入り込もうとして、幼くなりすぎたのでしょう。若返りの魔法はそんなに都合良くはできていないのです。代償として、自分が魔女だったことも忘れてしまった。でも自覚のないまま、悪い人間を呼び込んだりして、人の不幸を啜ってたのでしょう」
「啜る?」
「そう。悪い魔女は、人の不幸を食べて満腹、というか満足を得ます。性根が悪く生まれついて、悪いまま大きくなるから、それはもうたちが悪い。記憶が消えたくらいでは、魔女の力は失っても、性根は変わらなかったでしょう。
奥様に種を植え付けたのだって、自分を追い詰めたご夫君の大切な人を呪って、不幸にしようとしたからです。死んでからか、死にかけたからかは知りませんが、切羽詰まってやっと魔女らしい力を取り戻して、最初で最後にやったことが、嫌がらせとは……」
ほとほと呆れた魔女ですね、と魔女が呆れて肩をすくめた。
魔女にも色々いるらしい。
頷いていいやら、笑っていいやらわからない私に、オニキス様はふふ、と愉快そうに笑った。
「どうです奥様、一晩経って、戻った実感が湧きましたか?」
尋ねられて、私は私を全身で感じてみた。
白くなった髪はヘアオイルで艶を出すと少し銀に煌めくので、気に入っている。たるっとした頬の触り心地は、若者にはない底なしの柔らかさ。目尻口元の皺は少し本数が多いけれど、いい角度に入ったと思ってる。硬くなってきた手指はそれでも好きな料理を作り、旦那様の肩を上手に揉み、孫の婚礼衣装の襟を編むことができる。
家中の家具や食器と同じ、だいぶ草臥れているけれど、長い時間を共に過ごしてきた、愛すべき私の体だ。
私は大満足で、頷いた。
なによりも、こうして歳をとるまでの年月を共に過ごした旦那様を、家族を、大切な人々のことを覚えていられて、本当によかったと思っている。
両親はすでに亡くなっていて、本当はもう会えないのだと気がついたけれど、それでも、両親を看取ったことも思い出せた。
「後悔していることといえば、若返っている間に、自由に動く体でもっとやりたいことをやっておけばよかったな、と」
「ふふ、奥様は前向きでいらっしゃる。得難い資質です」
「オニキス様、私のことはレッテとお呼びください。ほんの小さな頃の呼び名ですが」
「レッテ」
首を柔らかく傾けたオニキス様に、私はどうしても言わなければならないことがある。
「オニキス様。魔女の方にとって大切なラクサの木に、私、結婚してからの二年間、それこそ全力で戦いを挑んでしまいました。それ以降だって、あまり優しくはしてなかったかもしれません」
「はあ?」
おかしな声を出したのは、同じ部屋にいて聞いてないような顔をしていた息子だ。
けれど何だろう。何も変なことはいっていないのに。
あら、おなじことを旦那様にも思った気がするわね。親子ねえ。
「箒で打ち掛かったり、葉っぱをむしったり、思いあまって根っこを掘り返そうとしたり、燃やそうとしたり……」
「お、おいおい母さん」
「契約結婚の終わりの象徴のように思えていたので、八つ当たりです。申し訳ありませんでした」
ふ、ふふ、とオニキス様がおもしろそうに笑った。
「大木ですから。その程度のこと、微風程度にしか感じませんよ」
「そうでしょうか」
「ただ、奥様が小さい頃は木の根元でよく遊び、花が咲くと喜んでいたので、結婚後に態度が豹変したことが気になったのは確かです。それで頻繁に様子を見るようにしたのですが。
それが、あの時いい方向に働きましたね」
あくまで穏やかに微笑むオニキス様に、私はほっと、肩の力を抜いた。
「おっしゃる通り、私は幼い頃、あの木の下で過ごす時間が一番好きでした。祖母が子供の頃には若木で、一緒に大きくなった大事な木だと聞かされて。私もそんなふうに、友達のようになりたいと思っていたのです」
「光栄です、レッテ。あなたは、確かに、あの木の友ですよ。木に代わって、あなたに感謝を。残りの命を、どうかお幸せに」
オニキス様に言いたかったことは、全て言えたように思う。
私は最後に、まだ少し萎えの残る足で、深く礼を示し、オニキス様への最後の挨拶とした。
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