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「箒がいるわ。庭箒がいい」
翌日、気持ちの良い快晴に引き上げられて、私は少し元気を取り戻した。
そして宣言したのだが、今度はなんだ、と老医師は難しい顔をした。わかってる。過保護の発動だ。
「勝つためには武器が必要よ。でも、傷つける必要はないから、箒が手頃かなって」
「待って、よくわからない。箒を、どうするって?」
「剣の代わりにするのよ」
絶句した老医師をよそに、私はそろりと寝台を降りた。
四六時中、常に張り付かれてはいない(それに近いけれど)ので、老医師の目を盗んで、部屋を歩いて慣らしてあるのだ。もう、お手洗いまでの移動がやっと、というわけではない。
窓には、なんとなく近づけないけれど。
箒のないまま、私は構えてみせた。
「私、娘時代は騎士を目指そうかと思ってたの」
「初耳だ」
「そうね。旦那様と会ってからは触っていなかったわ」
上から下、下から右上、右上から左下、足を変えつつ、横薙ぎ。
手元に重さがなくて違和感があるものの、安定して体は動く。嬉しい。
「……運動神経がいいとは思っていたが。だが過信しないでくれ。以前もそれで無茶をしてた……それで、その箒で、なにをするんだ?」
「旦那様が、契約のお話に来られた時、途中で逃げられたら困るでしょ? その時は、ちょっと、足元を狙って、捕まえようかなって」
「……」
「それに、私の気持ちを引き締めてくれると思うから。ちょっとラクサの木にでも打ち掛かって、鍛錬したいな」
「もしかして、旦那が近くまで帰って来ていないか、箒を持って見回ったり……?」
老医師が、呆然という様子で言ったのに、私は目を丸くしてしまった。
「気が合うわね。そうなの。それがいいと思ってた。
旦那様は、私が川で馬車に押し潰されそうになった時、我が身の危険を顧みず咄嗟に飛び込んで救ってくれた勇気のある方なのよ。でも、普段はかなり慎重派なの。恋人になってすぐ、知ったのだけどね」
「幻滅は、しなかった?」
「慎重なのっていいことよ。思慮深いってことだわ。私は、旦那様と結婚するためには策を講じたけれど、基本的には直観でまず体が動くから。私とは違うな、ってとても尊敬してるの」
老医師が咳払いをした。おかしなことを言ったかしら。
でも私の頭はすぐに、旦那様のことでいっぱいになった。
旦那様が一人で立つ、ぴしりと背筋の通った立ち姿を思い浮かべる。あまり家で見たことはないけれど、執事服ね。背中が広くて、腰が締まってる。振り返りそうで、振り返らない角度。
恋人の時は隣に、結婚してからは正面にいるように感じていたけれど。
いつの間にか、旦那様は私の前に、背中を向けて立っている。きっとまた、色々慎重に考えている。
その背中をとん、と押す。それが、私が最後にできることだと、思い定める。
「ずっと帰らなかった家に帰って、契約結婚の妻と話し合うって、結構な重圧だと思うの。うまくいかないことばかり考えて、せっかく近くまで帰って来てもやっぱりやめようとなさるかもしれないもの。
辛いことを先延ばししても、お互いに幸せではないから。だから、もう少し蕾が膨らんだら、夜、鍛錬と一緒に辺りの見回りもしたいな、って思ってたわ」
口に出すと、俄にやる気が漲った。
こうなると、体調を崩していることが、口惜しい。早く回復しなければ、旦那様を捕まえられる時期が過ぎてしまうかも。
老医師が私を眩しそうに見ていたことには気が付かず、狩りのごとく旦那様の出現ポイントを検討していたが、ふいにくらりと目が回ってしまった。
「危ない」
崩れ落ちる体を、老医師が支えてくれた。
けれど、お礼を言うこともできず、私は眠りに飲み込まれた。暗い穴に、落ちていくような眠りだった。
行き着く先はいつもの悪夢だ。
怖い。嫌だ。怖い。
たぶん、私は壊れかけている。
相変わらず旦那様のいない家で、私は憂鬱に老医師を眺めた。その頬に、赤い引っ掻き傷がある。
朝、私の爪に赤い色が付いていたのも、知っている。もうきれいにされてしまったので、残っていないけれど。
体調を崩して以降ずっと、私は夢の中ではいつも、恐ろしいものに囚われないよう、必死に抵抗している。
夢の私はとびっきり強い。
風のように駆けて、嫌なものは嫌だと大声で言い、魅力がないから可愛くないから夫に見向きもされないのだ、と腹の立つことを言う誰かを思い切り蹴って。騎士を目指して鍛錬していた時より身が軽くて、大暴れ。
きっと夢にとどまらず、現実にも暴れて老医師を傷つけたのだろう。
申し訳ない。
それほどがむしゃらな抵抗は無駄に終わるので、申し訳なさは一層強い。
どれほど強くても、最終的に私は、しつこく迫って来る黒くて嫌な何かに追いつかれてしまうのだ。いつも。いつもいつも。
その黒い嫌な影は、時々綺麗な女の人に見える。
見たこともないはずの、旦那様のお相手の女性の姿をしている。
だから。黒い嫌な影は、とても禍々しく慈悲のない、目を合わせてもいけない何かだとわかるのに、私は胸をかきむしられるような嫉妬に駆られて睨みつけてしまうのだ。対峙してしまうのだ。
敵うはずのない、私など小虫程度でしかない、恐ろしい相手に。
そこでようやく私は思い出す。いつも私がこの影にどんな目に遭わされるか、ということを。
怖い、と夢の私は震える。
でも、私の悪夢だからといって、私に都合よいところで終わってはくれないのよね。
私はなすすべもなく、胸を刺し貫かれる。手から箒が滑り落ちる。
胸を貫くのは、白く、細い指だ。
何かを摘む形の、女の指。
引き抜かれた指には、もう何もない。さっきの血の色の粒は、どこへ行ったの。
旦那様が、目の前にいる。
私の胸には、穴が空いている。
助けを求めて手を伸ばした私を、一瞥もすることなく。
旦那様は、消えた女を探して、走っていく。
私を捨てて。
背を向けて。
はっと目を見開いた。
風がガタガタと薄明るい窓を鳴らしている。
揺さぶられた木の枝が、カサカサと窓枠を引っ掻いて、夢現がわからない私はビクリとした。枝の先、広がった数本の細い枝が、こちらに向けて伸ばされた白くて細い手に見えた。
見間違い。はっきりそうわかっていても、引き攣った悲鳴は抑えられない。
老医師が私を宥め、落ち着かせた後も、窓の外がしばらく怖くてたまらなかった。
旦那様がいない。
旦那様は、あの女を追って行ってしまった。
それが悲しくてたまらない。
私は、どこか壊れている。
ふっくらとした蕾の先端に、少し色がのぞくようになってきた。
ああ、契約結婚の終わりが、もうすぐ来てしまう。
暴れる私を力一杯抱きしめて押さえていた老医師が、やがて震えながらも静かになった私を見下ろし、決断を下したことを、知ることはないまま。
次に目を覚ました時には、老医師は、私の担当医を辞すと置き手紙を残し、姿を消していた。
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