花のこと

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 それで、私は壊れきってしまったのかもしれない。  箒の鍛錬はおろか、食事を取る気力も失った。  身の回りの世話は、年配の女が俯きがちにそっと入ってきて、無言のままに終わらせすぐさま立ち去るばかり。  寝台に横になったままぼんやりとして、何を考えているわけでもないのに、気がつけば涙が寝具を濡らしている。  寂しくて、寂しくて。 「……旦那様。リオル様。会いたい。会いたい。リオル様」  旦那様を、何度呼んだだろう。  両親を、老医師を、呼びもした。  けれど、旦那様にも、誰にも会えないまま、幾日過ぎたのだろう。二日、三日? それとも、ひと月?  そして、ふと気づく。  そういえば、家具も食器も、どこか古ぼけて見えないだろうか。  気に入っていたヘッドボードの小鳥がおしくらまんじゅうしている彫刻も。大事にしていた銀の藤花房のシェードのオイルランプも。  あらゆるものが古びて煤けている。  それは私が壊れたからだと、そう思っていたけれど。  だんだんと、世界がおかしいように思えてきた。  いつの間にか、私の身の回りのものが、少しずつ入れ替わって、私を混乱させようと悪意を持って包囲を狭めてきているのだ。  なんのため? そんなのどうでもいい。  そうに違いないのだ。  老医師も、そうして入れ替えられてしまったに違いない。替わりの人はまだ来ないけれど。きっともう、会えないのだ、あの人には。  もしかしたら、両親も。だってもう随分と長い間、会えていないはずだ。  では、旦那様は?  私を大切に扱ってくれていたのに、突然帰って来なくなった旦那様は、もしかして、もうすでに——。  魘されながらうとうととしていた私を、誰かが揺り起こした。この頃は昼も夜もよく眠れなくて、ずっと朦朧としている。  私を揺り起こした誰かが、何か言っているけれど、聞き取れない。  ああ、でも、やっと会えた。  やっと来てくれた! 「旦那様、旦那様」  縋りついた私を、旦那様は困惑したように支えてくれたが、すぐに扉の方から聞き慣れない女の声がして、旦那様がそちらを振り返った。  ああ、そちらを見ないで。あの女のところになんて、行ってしまわないで。  また、私を捨てて、そちらへ行くの?  背中を向けて。  慎重な旦那様の背中を押してあげよう、なんて思ってたことを忘れ去って、私は必死でその背に縋り付く。 「旦那様、お願い、行かないで。私を、捨てないで」 「メルガレーテ! ——やめろ、お前たち。彼女を脅かすな!」  厳しい声が響いて、私は誰かによって、軽々と旦那様から引き剥がされた。 「メルガレーテ!」  それは私の名。呼んだのは、私を旦那様から引き剥がした、白い髭の老医師だ。  なぜ旦那様の目の前で、老医師が私の名を叫ぶの?  なぜ、奪うようにして私を抱き締めるの?  強く、強く、もう二度と離さないというように。 「奥様、悪い夢を祓いに来ました」 「気をしっかり持って」  先程の女の、不思議な震えを持つビロードのような声が宣言し、旦那様が、老医師に抱きしめられたままの私を励ますように覗き込む。  いえ。  この人は旦那様じゃないわ。とてもよく似ているけれど、旦那様じゃない。  やっぱり、旦那様はもう、入れ替えられてしまっていたのだ。  ここは、この世界は、一体なんなの……。  がくがくと体が震えた。  怖くて、心細くて、私を抱き締める腕にしがみついたら。その腕から力が抜けて、老医師が、ずるりと崩れ落ちた。 「親父!」  旦那様によく似た人が叫んだ。  おやじとは、父親を呼ぶ名よね。  けれどそんなことより、私に寄り添うように寝台に倒れ込んだ老医師の体が、とても熱い。息も苦しそうだ。  担当医を外れたのは、体調が悪かったせいなのだろうか。まだ良くなっていなかったのだろうか。せっかく戻ってきてくれたのに。また、いなくなってしまうのだろうか。  胸が引き裂かれるように痛んで、私はその背に手を当てた。  硬く、まだまだ力強いが、肉の薄くなった背だ。  愛おしい、老いた背だ。  彼がいなくなったら、そう考えただけで、胸が潰れそうだ。 「大丈夫だ」  老医師の口が、力なくそんな慰めを言う。初めて聞く、彼の気休めだ。  私はガクガクと頷きながらも、老医師の右耳の下にある傷跡に釘付けだった。顎まで続く大きな傷。  髭の下に隠れて、今まで見えなかったそれは、旦那様が馬車の事故から私を助けてくれた時の傷。少し色味は薄いけれど、間違いなく、同じ傷だ。  答えを求めて顔を上げた私は、間近に迫っていた女の黒い目に囚われた。  光のない、玉のような目に、年若い娘が映っている。  生気のない不健康そうな顔に、不安と不幸を塗り込めたような、私——。  その顔が、一瞬にして、薄紅色の花びらで覆い隠された。 「え」 「メルガレーテ!」 「母さん!」  戸惑いと恐れの悲鳴。  その合間に、苦々しげな女の声が響いた。 「ああ、花が、咲いてしまった」  花が。咲き誇る花が、私の胸から突き出た枝の先で薄紅色に揺れている。  契約の終わりの花が、咲いてしまったわ、旦那様。
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