記憶

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記憶

「奥様は、ラクサ病という病にかかっています」  自らを魔女オニキスと名乗った女性は、顔を隠すフードを目深に被ったまま、俺に向かってそんなことを言った。 「ラクサの木は、昔むかしは精霊の国と呼ばれたラクサ国のものでした。時代に流され、木がこの国に広まりました。私たち魔女の根源もラクサ国です。  ……ラクサ国が滅びて、魔女たちは散り散りになり、以降、私も他の魔女に会ったことはありません。  当時から魔女の木と呼ばれるほど、ラクサの木は魔女に近い。波長が合う、といいますか。  魔女は死ぬ時、力を込めたラクサの種を一粒産み出して、生き延びたければ土に、誰かを呪いたければその相手に植えます。体に埋め込まれた魔女の種は、発芽すると一気に母体の記憶を吸い取り、生命活動に最適な年齢に体年齢を移行させます」 「……記憶が、吸われる」 「種はほとんど魔力でできているので、あなた方の目には見えません。けれど、確かに奥様の胸に魔女の種が植えられているのを、遠目に確認しました」  落ち着いた女の声は聞き取りやすかったはずだが、俺の頭の中には入って来ない。  確かに妻の姿形は変わったし、記憶もないようだが、健康で、生命力に溢れている。  この異常な現象の解明を求めて手は尽くしていたが、俺には妻自身が害されているという意識が乏しかった。  だが俺と同じほどに焦燥して手を尽くしてくれていた息子が、疲労困憊しながら馬で連れて来たこの女性は、妻が危ない、と言うのだ。  だが、魔女に呪われているなど、にわかには信じられない。 「奥様は、今、異常な状態です。一見若く健康そうで、なんの問題もなく若返ったかのように見えますが、魔法による若返りは、歪みを生じます。  記憶は人格の素でもあります。記憶を失って、もう一度同じ程の時間を過ごしたとして、同じ人格を得るとは限りません。まして周りの時とは切り離されてしまう。  精神には負担が大きいでしょう」  たしかに、夜はいつも魘され、昼も朦朧とする時間が長くなっている。  じわり、と腑が冷える。あの状態を、哀れにも不安にも思っていたはずなのに、そこまで深刻に考えもしなかった己が不甲斐ない。  今の若い妻でいるのは、あくまで一時的なものと、頭のどこかで決めつけていたように思う。  一時的でないならば。  妻は人生をやり直すことになる。  そう長くはない、俺のいない未来を一人で生きることに。  いや、妻は、妻として生きられるのだろうか…? 別人としてしか、世に受け入れられないのではないか?  現実味のないままあれこれと考える。考える端から、足元が崩れていくようだった。  だから、次の魔女の言葉には、縋り付かんばかりに膝をついた。 「あまり、時間は残されていません。治療のためには、ご夫君に覚悟を決めていただく必要があります。ご判断は、早急にいただけるとありがたいのですが」 「治療ができるのですか! それなら……」 「治療とは、ラクサの種に吸い上げられた奥様の記憶を取り戻す手助けです。記憶を取り戻すためには、呼び水となる別の人間の記憶が必要になります。  一番適しているのは、ご夫君の記憶でしょう。ご夫君には大きな影響は出ないよう、記憶を写し取って使用します。  覚悟いただきたいというのは、——奥様は治療の過程で、ご夫君の記憶をつぶさに観て、感じることになります。夫婦とはいえ、記憶は個人のもの。知られる覚悟は必要でしょう」  俺は、息が止まるかと思った。  妻の記憶の中で、夫の俺は家に帰ってきていない。思い当たる時期はある。思い出したくもなく、もう忘れ去ったと思っていた記憶がある。  あの、おぞましい記憶を、妻に——? 「……考えさせてほしい」 「親父!」  黙って控えてくれていた息子が、焦れて叫ぶ。だが、到底、すんなりと受け入れられるものではない。 「一晩だけ、考えさせてほしい。許せ」 「……許すのは、我々ではありませんし、奥様でもありません。決めるのはあなたです」  わかったようなことを言うなと、ぎりぎりと歯を食いしばった俺に、魔女は静かに言葉を足した。 「あなたの記憶が、どれほど奥様を傷つけるか、心配する気持ちは悪いものではありません。ただ、今の奥様と過ごして、あなたもまた奥様の過去に触れたと思います。  それは、悪いことばかりでしたか?」  本当は、その魔女の言葉を聞いた時には、心は粗方決まっていた。  過去の妻は、俺の知らぬところで傷ついていたし、俺の知らない顔を持っていたし、俺の知らない決意を秘めていた。それを知って、もちろん俺は衝撃を受け、傷つきもしたが、知らなければよかったとは思ったことはない。  ただ、あと少しだけ、眩しく見える若く健やかな妻を、見守りたかっただけ。  そのせいで。  目の前には、若い妻が横たわり、その胸から女の腕ほどの枝を生やしている。忌々しいほどに美しい花づきの枝だ。  胸元の衣服を突き破っているので、まるで背中から枝で貫かれたようにしか見えない。 「魔女の種が、もはや若木となって、さらに花まで咲いてしまいました。思ったより、呪いの進行が早い。——この花が散れば、母体は魔女になります」 「「なんだと」」  親子の叫びが重なった。  血の圧が上がり、眩暈がした。熱っぽい呼吸が、自分でもおかしいくらいに荒い。 「ああ、興奮し過ぎないで。この数日何度も記憶を抜いたので、魂が疲弊しているのです。安静に」  魔女など、おとぎ話だと思っていたが。息子には詳細は聞くなと首を振られたが、国の中枢では既知の存在らしい。  だが、淡々と話すこの女性は、魔女、というよりは賢者の様相だ。  彼女よりも魔女という字面にふさわしい女を、俺は一人知っている。 「妻に種を植えたのは、リゼか」 「リゼ。ああ、あなたの記憶の中の、そう、彼女です。もう死んでいますね。自分を生かすのではなく、他人を魔女に作り替えようとした、愚かな魔女」 「リゼが、魔女」  息子が、鬼のような険しい顔をした。 「親父の、浮気相手かよ」 「違う」  断じて、違う。妻だって、本当は知っていた。すでに全てを話していたのだから。 「種は、幸せな記憶から吸ってしまうので、辛い記憶はいつまでも残り、表層に浮かび上がってきます。表面上は癒えた記憶であっても、上澄みをとっていけば、治り切らない傷跡がでてくることもあるでしょう。  魔女ですが、同じ女として言うならば、話し合ったからといって、傷ついた記憶が和らぐわけでもないのですよ。残念ながらね」  俺の記憶を見たからか、魔女が意外に踏み込んだ一言をこぼした。  傷ついた記憶が、和らぐわけではない。  その言葉には、奥歯を噛み締めるほかはなかった。 「さて。あなたから抜いた記憶ですが。これを奥様に移植します。これが唯一、奥様を救う手立てです。奥様は、あなたの記憶を通して、奥様の半生をこの木からもう一度奪い返せるはずです。  ……あなたは、奥様を魔女にしたくない。人としての命に留めたい。そうですね?」 「そうだ」  魔女オニキスの、フードから除く黒々とした石のような目が、妻と俺を見比べた。  妻の真っ白で滑らかな手を、ペンだこと節と皮膚の陰影が目立つ老木のような手で、握った。  この手は、離さない。 「人としての命は、おふたり、そう長くはない。それでも?」 「——それでも」  では、奥様にもお尋ねしましょう。  と魔女オニキスは厳かに言った。 「奥様の人生です。たとえ、今は記憶がなく、ご夫君の不在に心病んでいるとしても。奥様が決めるべきです。奥様の人生の、その続きを歩む機会を欲するかどうか」  魔女の、真っ当であろう宣言に、危うく叫びそうになった。  もし。もし妻が、俺と一緒の人生を拒否したならば。それよりも、魔女になることを選んだならば。  俺は、妻を失うのか。  気の遠くなるような後悔が、胸に押し寄せる。  全て終わったと思っていたのに。妻は傷ついたままで、胸には種とやらを植えられていた。  何一つ気づかず、なんと不甲斐のない、愚かな夫か。  なぜ、あの頃、わかってもらった気になって、都合の良いことばかりを考えたのか。  こんな男を、妻は、夫としてまだ望んでくれるだろうか。  いくら悔やんでも、もう時は取り戻せない。  奥様、という魔女の呼びかけに、握った手が、ピクリと動いた。  睫毛を揺らして、妻が、ゆっくりとその目を開けた。  俺は、同じような瞬間を、見たことがある。  忘れられない、妻の一番美しい瞬間を。
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