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花のこと
あの花が咲く頃、この偽りの結婚生活も終わりを迎えるだろう。
額のように青空を切り取る寝室の窓に、覗き込むように頭を覗かせているラクサの木の枝を、私は恨めしい思いで遠く寝台から睨め付けた。
一見枯れ枝のように見えるが、ひそかに枝と同じ色の小さな蕾をたくさんつけている。
今、あの枝を落とせば、咲かずに終わるだろうか。
憎たらしさに、そんなことまで考える。
小さいころは大好きな木だったけれど、今なら、やっちゃえる気がするわ。
でもラクサの木は、春告げの木として愛されている。
風土に合うのか野にも山にも立っているが、街中でも一軒に一本はラクサを植えている。葉を落として冬を越し、風が暖かくなる頃、これらが一斉に薄紅色の花を咲かせるため、辺り一帯に春が舞い降りたようになるのだ。
私が窓から見える枝一本を葬ったとしても、春は来る。
何かの奇跡でラクサが地上から一本残らず消えたとしても、来てしまうだろう。
私にとって憂鬱な春が。
契約結婚の始まりは、春だった。
それを、一年ごとに見直す約束だ。
去年は旦那様の事情もあって更新してもらえたけれど。次はどうかしら。
旦那様はこのところ、家に帰って来ない。
お勤め先の領主様がお連れになった、とても美しい女の方と、ずっと一緒にいるらしい。
「旦那様は、領主様のお屋敷の執事見習いをされているわ。仕事熱心で真面目な方なの。お顔立ちは鋭めかしら。お顔の中では、私は、頬骨の高いところが好き。細身だけれど、力持ちでいらして、身のこなしもとても軽やかでいらっしゃるのよ。そして、お優しいの」
私は暇に任せて、手首をとって脈を測っている老医師に、尋ねられてもいない旦那様のことを話して聞かせていた。
特によい反応をしてくれるわけではないけれど、体調を崩して寝台から出ることができない私の部屋を訪れるのは、使用人を除けばこの老医師だけ。
私が話し相手にできるのは彼だけなのだ。
契約結婚とはいえ、旦那様は私のことを大切にしてくれていた。
挨拶をし、食事を共にし、夫と妻とした互いの友人たちと付き合い、生活で不自由などなく、笑い合い、自然と感謝の言葉を掛け合い、ただ黙って同じ部屋で時間を過ごすこともあったのだ。
旦那様が、家に帰って来なくなる前までだけれど。まるで、恋人として付き合っていたころのように。
当時はとても不思議だった。
だって、私は旦那様のことを好きだけれど。
旦那様にとって私との結婚は、ただの必要な手段でしかない。
「相手が、つまり私だけどね、一度は捨てた女だったのに、旦那様は受け入れるしかなかったの。相当切羽詰まってらしたのね。私も、そこを狙って持ちかけたのだけれど」
老医師は、医師ゆえに守秘義務があるという。話したことを他言はしないから、私が落ち着くためになら、何を話してもいいと言ってくれた。
それに甘えて、私は自分の罪を晒した。
結婚を断られて別れた元恋人が困っていると知って、私は策を弄したのだ。元恋人を、夫として手に入れるために。
両親になりふり構わず懇願して、旦那様が受け入れれば即座に入籍できるよう準備を整えた。領主様の屋敷から歩ける距離の、祖母が住んでいたこの屋敷を夫婦で使えるようにと手を入れたりして。
両親は旦那様のことを買っていたし、私たちが一度別れた詳しい経緯を知らなかったから、思ったより快く受け入れてくれた。
あとは、困り果てていた旦那様にそっと控えめに、救いの手を差し伸べるだけ。
目論見どおり、旦那様は私からの二度目の求婚を、受け入れた。
「でもね、旦那様は最後の最後に、条件を付けたの。結婚当初の三年間はお試しの期間とする。その間は双方の合意があればすんなり離縁ができるよう、夫婦生活を伴わないことって。
その時にこれは、ただの結婚じゃなくて、契約結婚になったというわけ」
「……そう。あなたはそれを望んでいなかったのだね?」
老医師が私の手を寝具の下に戻しながら、静かに問いかけてきた。答えの分かり切った問い。
「私は、旦那様が好きで結婚したかったの。条件なんていらなかったわ」
「そう、か……でも双方の合意というからには、片方だけの意見では離縁できないはずだよ」
「建前上はそうだけど。……一度は振られて、諦めきれずに策を弄して結婚にまでこぎつけたのに、結果やっぱり別れたいと言われたら、もう一度追い縋る勇気は、私にはないわ」
一世一代の覚悟で口にした一度目の求婚は、すまない、の一言でなかったことになった。
二度目は開き直って、悪女になった気持ちでどうということもない顔をして、その実、たっぷりの未練と消せなかった愛をありったけ練り込んだ搦手で求婚したのだ。
追い詰められていたために仕方なくであろうとも、旦那様に受け入れられて、真顔を心がけていた私の胸には突風ほどの春風が吹いたのに。
契約結婚の形を提示されたのは、この家の下見に来た時。まだ埃除けの布を被った家具が並ぶ、応接室に、二人きりの時だった。
一年ごとに見直して、お互いに後悔のないようにしよう。
そう線を引かれて、私一人が冬へと逆戻りし、秒でバキバキに凍てついた。
旦那様の後ろで掃き出しの窓が大きく開いていて、満開のラクサの木が、よく見えた。凍りついた私と対照的に、春のうららかな日差しに気持ちよさそうにそよいでいた。
それから、私はあの木が大嫌いになったのだ。
「だから、今年限りで離縁を、と旦那様がおっしゃったら、そこで契約は満了、更新はなし。決定なの」
軽い口調で言い放ちながら、嫌な予感に胃の裏をじりじりと炙られるようだ。
だって、私がこうして寝込んでいても、旦那様は帰って来てはくれない。
首だけを動かして見た花の蕾が、昨日より膨らんで見えた。夜のうちに雨が降ったのだろうか。枝の色がいつもより濃い。
「そのまま、蕾も、雨でダメになってしまえばいいのに」
くさくさとして、ふと、苦い珈琲を飲みたくなった。
けれど、メイドを呼ぼうとベルを手に取ると、横から伸びてきたペンだこのある手が、ベルを取り上げてしまった。
「俺が呼ぶよ。何か欲しいものが?」
「珈琲を飲みたいの。すごく苦いやつ」
「珈琲はダメだよ。刺激が強い。今日は少し肌寒いから、温かい生姜茶にしたらいい」
この老医師は顔中髭だらけのくせに、ほんとうに遠慮なく細かいし、口うるさい。旦那様ならきっと、私の好きなものを好きなだけ食べたら良い、と言ってくれるのに。
生姜茶も、嫌いではないけれど。
む、と口を引き結んだ私を細めた目で優しく見てから、老医師は廊下に出て、そこにいた誰かに生姜茶を頼んでしまった。少し甘めにと指示が聞こえる。
慈悲深いお医者様は、私を小さな子供扱いしているようで、どうにもくすぐったく、少し煩わしい。
ここは私と旦那様の家で、老医師は今回寝込んで初めて診に来てもらった、ただの往診のお医者様のはずなのだけど。
家の者は、この老医師に私のことを任せ、老医師の言うことをよく聞いている。
なぜだろう。
寝台から出られない日が続いているせいか、頭に霞がかかるように曖昧なことが時々ある。
旦那様が、老医師の言う通りにするようにと、言付けて派遣してくださったのかしら。
急に眠気が増して、私は面倒な思考を切り上げた。
生姜湯が来るまでは、なんとか起きていたい。そう思ったのに。
「眠たかったら、少し目を閉じていればいい。大丈夫、もし眠ってしまっても、問題ないよ」
そう老医師が言うのを聞くと、不思議と気掛かりがすべて遠のく気がした。
私はうっかり安心して、そのまま眠り込んでしまって、せっかくの少し甘めの生姜湯は飲むことができなかった。
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