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①
アルスタン国王、アシェル=ネラ=アルスタンの在位三十年の式典当日、フィンレーは祭事を終えて、いまだ使うことが出来ない小瓶を胸元から取り出して溜め息を吐く。
ジュリアスが帰国するのは五日後の予定で、つまりフィンレーに残された時間は四日間しかないということになる。
「せっかくアマリアが作ってくれたけど、出番が来ないまま終わりそうね」
今日までにジュリアスとは何度も顔を合わせたが、勝手に心を覗く罪悪感と躊躇いが、フィンレーの動きを鈍らせていた。
「なあ、ちょっといいか。この著者の別の本を……」
ノックもなく、不意に扉が開いてフィンレーの部屋に突然ジュリアスが入って来た。
「ちょっと、着替えてる最中だったらどうするのよ」
「着替え?別に見えたとしても、許嫁の俺との間で、なにも問題ないだろ」
大したことではないと言われたことが、更にフィンレーの心を抉る。ジュリアスのこうした何気ない言動は、これから先、夫婦となっても続くのだろうか。
仄暗い不安が込み上げると、ふと手にしたままの小瓶に気が付いた。今こそこれを使う好機なのではないだろうか。フィンレーはようやく決意する。
「本なら貸してあげるけど、たまにはお茶でも飲んでいかない?本の感想も聞きたいし」
「へえ、いつもはすぐ部屋から出てけって追い出すのに」
「だから、たまにはって言ってるでしょ」
ジュリアスが持ってきた本を確認すると、フィンレーは同じ著者の他の本を目線で探しながら、ベルを鳴らしてアマリアを呼ぶ。
機転が利くアマリアは、すぐにお茶の支度を整えてからフィンレーに意味深な目配せをして合図を送ると、辺りの人払いまでしたのか部屋の外から人の気配が消えた。
「ごめんジュリアス。書棚の一番上の段なのよ。緑の背表紙に金の文字と、その隣の茶色い背表紙に黒字の本がそうよ。勝手に取っていいから」
「ああ、あの二冊だね」
ジュリアスの意識が完全に書棚に向かった瞬間、フィンレーは小瓶からカップに薬を垂らした。
そしてそのまま何食わぬ顔でお茶を淹れると、フィンレーは戻ってきたジュリアスに紅茶を注いだカップを差し出した。
「ほらね。私だってお茶くらい淹れられるのよ」
「支度をしたのはアマリアだろ。注いだだけじゃないか」
可笑しそうに肩を揺らしながらも、ジュリアスがカップに口を付ける。薬を入れた紅茶をジュリアスが飲んでいる。フィンレーはその様子を息を呑んで見守った。
「なに?どうかしたの」
「いいえ。熱過ぎなかったかと思って」
「ありがとう。とても美味しいよ」
優しい笑顔を向けられて、やはりフィンレーの中に罪悪感が広がっていく。
例えフィンレーがジュリアスに愛されていなくても、嫌われていないのなら無理矢理にまで本性を暴く必要はないのではないだろうか。
フィンレーの心が揺れて、慌ててカップを取り上げようと手を伸ばすが、ジュリアスはよほど喉が渇いていたのか、淹れたばかりの紅茶を飲み干してしまった。
「なんだよさっきから。どうしたの」
フィンレーの様子がおかしいことに気が付いて、ジュリアスは不思議そうに首を傾げて顔を覗き込むが、次の瞬間大きく咳き込んで苦しそうにもがき始めた。
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