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汚れ
ああ、どうしよう、こんなに汚れて。
早く綺麗にしなくちゃ、あの人が帰ってきてしまう──。
最近残業や出張でいない日が多かったあの人から、今日は早めに帰るからゆっくり話をしようという連絡があったのは、お昼を過ぎた頃だった。
自分一人の為にちゃんとした夕ご飯を作るのは面倒で、このところ料理は手抜きだったけれど、今日はいつも忙しいあの人のためにご馳走を作っておこう。
二人で夕ご飯は久しぶりだもの。記念日のディナーに使っていた白いお皿のセットを出そうかしら。
ついつい浮かれて、お花も飾ろうかなんて思ったけれど、流石にそれはやめて白いテーブルクロスをかけるだけにしておいた。
そのテーブルクロスは、私のウエディングベールにレースの部分が似てるからという理由で彼が選んだもので、甘過ぎないカットワークは私のお気に入りでもあった。
ワインを冷やさなきゃ。
デザートも用意しようかしら?
久しぶりにウキウキした気分。
最近少しのすれ違いはあったけれど、私の寂しかった気持ちを押し付けることはせず、今日は彼にリラックスしてもらわないと。
結婚して三年。今夜の流れ次第で、そろそろ赤ちゃんがほしいって、言ってもいいかしら?
「……いたっ」
浮かれすぎて手元がお留守になってしまってたんだろう。包丁で、ザックリと指を切ってしまった。
流れる赤黒い血。
慌てて反対の手で強く押さえてみるけれど、少しでも離すとすぐに血が流れ出してくる。
ベージュのエプロンにも血の染みが飛んでいた。
「嫌だ、もう」
こんなエプロンを見せたら、彼の食欲を失わせてしまう!
慌ててエプロンを外し、テーブルの上に置こうとして思いとどまった。
「テーブルクロスが血で汚れちゃったら大変!」
そうしている間にも指から血は流れていて、もうどうせ汚れてるんだから、とエプロンで止血することにした。
「!?」
エプロンの紐が垂れて床についたところで目を見張る。
指を切った驚きで手を引いた拍子にソースパンをひっくり返したのだろう、赤黒いヴァンルージュソースが床に染みを作っていた。
「嫌だ、もう」
ワインの染みはなかなか落ちないから、あの白のテーブルクロスについたら大変。
ウッカリにも程があると、慌ててしゃがみ込み、指の痛みも忘れてキッチンに飛び散ったソースを必死に拭いとる。
もうすぐ帰ってくるあの人に、こんなところ見せられない。せっかく二人の時間を過ごせるのに。
指の怪我を見たら、笑われるかしら? それとも心配してくれる?
ああ、やっと汚れが落ちてきた。
料理の早く続きをやらないと。
落としてしまったソースも作り直しをしないといけない。
材料まだ残っているかしら?
コンロの上のソースパンの中に、二人分のヴァンルージュソースがあるのことを確認したときだった。
「………康雄さん、まだハンコもらえないの?
はっきりっ……」
ダイニングルームの入り口から女の声が聞こえてきた。
「………やだ……ねえ、ちょっと……」
見たことがあるその女は、あの人の部下だ。
半年ほど前に我が家でお鍋をしたとき、何人かいた会社の人の一人で、若くて綺麗だけど少し意地の悪そうな顔をしている。
それに人の夫を名前で呼ぶなんて、なんて失礼なんだろう。
イライラする。
「康雄さん? ……っ!!!」
女が勝手にキッチンを周り混んだとき、嗅ぎ慣れた香水の匂いが鼻をついた。
ああ、厭だ。
なんて腹のたつ匂いなんだろう。
厚顔無恥で、破廉恥で、下世話な匂い。
こちらに向けて見開かれた目の黒い縁取りも、開かれた唇に塗りたくられた好色そうな紅い色も、その口から発せられる耳障りな声も。
厭だ厭だ厭だ厭だ。
「やめて……こないで……いやっ!!ぎゃああぁぁぁぁぁぁ」
「嫌だ、もう」
ソースパンをひっくり返してしまったんだろう。赤黒いヴァンルージュソースが床に染みを作っていた。
ああ、どうしよう、こんなに汚れて。
早く綺麗にしなくちゃ、あの人が帰ってきてしまう──。
残業や出張でいない日が多かったあの人と、今日は久しぶりの夕ご飯だから。
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