3人が本棚に入れています
本棚に追加
篠田(旧姓橋口)小百合
小百合は窮地に陥っていた。
絶体絶命のピンチだ。
目の前に夫の死体がころがっている。殺したのは小百合だ。
最初からそのつもりだったわけじゃない。
何年も夫のDVに苦しめられてきたのは小百合のほうだ。今夜も気を失う直前までなぐられていた。外では優しい夫の皮をかぶっていながら、辰也は一歩家に入り二人きりになると、ねちっこくイヤミを言い、精神的に小百合を追いつめた。
「ああ、悪ぃ。サバ、落としたわ」
スマホゲームをしながら片手で晩食を食べていた辰也は、ハラハラしている小百合の前で、案の定、メインディッシュをとりこぼし、床に落とした。
「新しいのないの?」
「あの、すみません。二人ぶんしか作ってないの。わたし、まだ口つけてないから、よければ交換します」
「じゃあ、そうして」
しかたない。一食くらい我慢するのはぜんぜん平気だ。夫が暴力をふるいさえしなければ、なんだって耐えられる。
小百合は自分の皿をそのまま辰也の前に出し、床に落ちた味噌煮をキッチンペーパーにくるんでひろった。そのままゴミ箱に入れると、いきなり辰也はキレた。
「なんですてるんだよ?」
「えっ? でも……」
「誰の稼ぎで食えてると思ってんだよ! おれの金だろ? おまえ今、おれの金すてたんだよ。食えっちゅうの。やなら二度となんも食うな!」
「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい。怒らないで」
「食えよ。ほら、食わないか!」
生ゴミのゴミ箱に入れたサバをもう一度ひろいだして、泣きながら食べた。吐きそうになりながら飲みこんだ。ただひたすら暴力をさけるために。
だが、けっきょくはなぐられた。こうなってしまった辰也はどうやっても止められないのだ。
「何、泣いてんだよ! ええっ? 悔しいから泣くんだな? おれに感謝してない証拠だ。クソがっ! 笑えよ。笑って食え!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
それでなぐられて、ボコボコにされた。失神しそうになったとき、辰也が包丁を持ちだしてきた。それをどうするつもりだろうと、もうろうとながめる。
「バカだから、おぼえてらんないんだろ? 体に刻んどけば、さすがに忘れねぇよな?」
乳房の下に冷たい感触を押しあてられる。心の底からヒヤッとした。殺される恐怖よりも、まっさきに切断されるという気持ちが浮かんだ。乳房を切り落とされてしまうと。
「やめてェーッ!」
夢中でつきとばした。
ウギャッとカエルのつぶれるような声がして、ガタガタと派手に物が倒れる。恐る恐る目をあけると、辰也はもう死んでいた。包丁が胸につき刺さっている。
「辰也さん……?」
小百合が殺したのだ。包丁の柄をにぎり、ぶあつい肉を貫通した感触がまだ手の内に残っている。
どうしよう。
これ、いったい、どうしよう……。
最初のコメントを投稿しよう!