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菅原鑑識官
鑑識の菅原は、刑事たちの会話を聞きながら、黙々と仕事を続けていた。どうやら、金子たちは完全に、侵入者が金銭目的で強盗に入り、はちあわせした辰也を殺して逃走したと考えているようだ。夫婦の寝室から貯金通帳とカードが数枚紛失していることも、そのうち小百合が見つけて言いだすだろう。
これでいい。約束を果たせた。この場に職務として菅原がやってきたことは奇跡としか言いようがない。
菅原は小学生のころ、過酷なイジメにあっていた。当時は小柄で反撃もできず、成績だけはよかったことが、なおさらクラスの男子の反感を買ったのだ。
とくに、クラスの中心人物である細野には強烈に嫌われていた。細野は名前とは裏腹に体格がよく、スポーツ全般が得意で、ルックスも悪くなかったので、人気者だった。だが、成績はさほどよくなかった。そのことを隠そうと必死だった。菅原はたまたま、ななめうしろの席で、細野のテストの点を見てしまった。二十五点の答案用紙を。だから恨まれたのだ。
初めは苦手な体育で、ずっとパスをまわされ、そのたびに失敗して責められるていどだった。だが、イジメはだんだんエスカレートしていくものだ。なぐる、けるの暴行はあたりまえ。持ちものを隠されたり、靴や体操服をゴミ箱にすてられたり、トイレの床で土下座させられたこともあった。金を請求されるようになると、毎日学校へ行くことが苦痛でたまらなかった。一万、二万、ときには十万持ってこいと、子どもには不可能な額を要求される。なければ親の金かカードを盗んでこいと命令された。あのころ、細野に何十万も略奪された。持っていかなければ家に火をつけると脅された。
細野さえいなければ。細野さえ……。
寝てもさめても、そんなふうに思っていた。一日じゅう、細野が消えてくれることを願った。
そんなころだ。プールで細野が溺れているのを見かけたのは。
あのときは自由行動の時間だった。二クラスが合同でプールを使っていた。
菅原は水泳も得意ではなかったので、台の置かれた浅いところで、顔をつけたり、もぐったりして、泳ぎの練習をしていた。たまにプールの端をつかんでバタ足をしてみたり。なんにせよ、ずっとすみっこから離れなかった。
ぐうぜん、もぐったときに、細野の顔がアップで見えた。苦しそうにもがいている。距離はほとんど離れていないが、台がない部分はいきなり深くなっている。小学生の背では足が底までつかない。
細野は必死でこっちに手を伸ばしてきた。足がつっているようだ。いつもなら泳ぎも達者な細野だが、自力でどうにもできずに沈んでいく。
「せ、せんせ——」
ふざけているわけじゃない。ほんとに溺れているんだとわかった。とっさに菅原は担任の先生を呼ぼうとした。
だが、そこで口をつぐんだ。
これまで細野が自分にしてきたことが、走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えた。
(アイツは僕にさんざんヒドイことしたのに、自分が苦しいときだけ助けを求めるってズルくない? どうせ、助かったら、またイジメるくせに)
パパやママもカードが不正利用されてるってさわぎだした。もうこれ以上、こんな生活続けられない。
僕が悪いんじゃないんだ。このまま、黙ってさえいれば……。
考えこんでいるあいだも、数分がすぎた。十分。十五分。細野は浮かびあがってこない。
やがて、静かになる水面。菅原は何も見なかったことにして、プールサイドへあがった。
だが、そのせつな、クラスの女子と目があった。彼女はずっと、菅原のようすを見ていたのだ。
胸がドキドキした。もしも、そのことを先生に言われたら……先生でなくても、彼女の家族にでも……。
クラスのなかで菅原は孤立していたから、その女子とも口をきいたことはなかった。彼女自身もあまり目立たなかったのかもしれない。
不安で叫びだしそうになりながら見つめていると、彼女は微笑んだ。そして、一度うなずきかけたあと、そのまま去っていった。
おかげで、菅原の人生最初で最後の殺人は誰にも知られることなく完遂した。細野は遺体となって見つかり、病院へ運ばれたが助からなかった。
菅原はイジメられることもなくなり、すっかり人生が変わった。心配をかけた両親には親孝行することもできるようになった。大学時代に知りあった人と結婚し、今では可愛い娘もいる。幸福な家庭。幸福な生涯。
あのとき、誰にも言わずに黙っていてくれた彼女には、ほんとに感謝している。
それが、小百合だ。
小百合とは小学卒業前に一度だけ話した。
「あの……約束するよ。もしも、橋口さんが困ってるときには、今度は僕が恩返しする。絶対だよ」
あの約束が今日、果たされたことに、菅原は満足している。
了
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