一、義元西進 ―永禄三年(一五六〇)―

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一、義元西進 ―永禄三年(一五六〇)―

承芳(しょうほう)よ、此度の出陣は取りやめよ」  闇の中からにじみ出る様に姿を現したのは恵探(えたん)だった。  恵探は、まるで合戦中ででもあるかのような、血と埃にまみれた薄汚い鎧姿でわしの寝所に現れると、暗く深い海の底のような瞳でそう言った。  わしは、はじめその男が恵探であるとは分からなかった。鎧姿だったということもあるが、それよりも恵探と最後に会ったのが、もう二十年以上も昔のことで、すぐにはその顔を思い出せなかったからだ。そう言えば最後に見た時も鎧姿であった。  恵探の姿は、あの頃と同じだった。少しこけた頬、射貫くような瞳、ほくそ笑んでいるかのような口元、何もかもがあの頃のまま。そう、恵探は、まるで時が止まってしまっているかのように、わしが最後に見た時の姿のままだった。  むろんそんなことがあろうはずもない。では何ゆえ恵探はわしの前に現れたのか。恨みごとの一つでも言いたくなったのであろうか。 「何ゆえ此度の出陣を取りやめねばならぬ」 「その訳を話せば出陣を取りやめるか?」 「それは、そなたが申す話の中身による」  恵探は、少し考えた後で「なれば……」と言葉を継いだ。 「出陣すれば、おまえは討たれるのだ」  よどみのない言葉だった。まっすぐにわしの心を貫かんとする激しい言葉、ぶしつけな遠慮のない言葉は、まさしくあの頃と同じだった。久しく感じたことのないその懐かしさに時間が一気にあの頃に戻る。今でははるか遠くとなってしまったあの頃に。 「馬鹿なことを申すな」  わしは、郷愁に煽られて一瞬返すべき言葉を失ったが、すぐに己を取り戻すと、恵探の言葉を一笑に付した。 「聞け、承芳よ。これは世迷言ではないのだ。ましてや笑い事などでは断じてない。当家の存亡にかかることなのだ」  当家と言うたか。まさかそなたの口から当家などという言葉が出てこようとはな。 「もうよい。これ以上は聞く耳を持たぬ。早々に去ね」  わしは、その言葉で、執拗に絡みついてくる過去を断ち切った。そこに秘められた思いも何もかも全てを。そうすべきだと思った。あるいは、それ以上恵探と話すことが怖かったのかもしれぬ。 「やはり、おまえには届かぬか」  恵探は、そう言うと、もうそれ以上は何も言い返してはこなかった。そして現れた時とは逆に、滲み出た闇の中へと戻っていくように、その姿を消した。後には深淵と静寂だけが残された。  あれから二十四年。恵探よ、何ゆえそなたは今ごろになってわしの前に現れたのだ。  永禄(えいろく)三年(一五六〇)駿河国(するがのくに)――。  隠居の身となっていたわしは、上洛のための軍を西に進ませていた。  家督を嫡子の氏真(うじざね)に譲ったのは、ちょうど一昨年のこと。わしが不惑になる年だった。  家臣の中には時期尚早と言う者もいたが、頃合いであったと思う。何よりも、わしには他にすべきことがあった。  わしは、懸案であった三河の一揆を鎮圧すると、今川内部のことは氏真に任せ、およそ二万の軍勢を率いて、かねてより思い描いていた都への進軍を開始した。西方へ向かうその軍勢は、さながら浄土を目指す一団のようであった。  上洛の目的は二つ。一つは、その途上にある尾張国内において、織田家に奪われた諸城を奪還すること。  わしの父、今川(いまがわ)氏親(うじちか)は、大永(だいえい)年間に末弟の氏豊(うじとよ)那古野(なごや)今川家の養子に入れると、那古野の地に城を築き、城主に据え置いた。だが、まだ幼く人を疑うことを知らなかった氏豊は、今は亡き織田(おだ)弾正忠(だんじょうのちゅう)信秀(のぶひで)のだまし討ちに遭い、その城をまんまと奪われたのだ。  その後、那古野城は、弾正忠の嫡子である信長(のぶなが)の居城となり、今では家老の(はやし)秀貞(ひでさだ)が城主として居座っている。盗人猛々しいとはこのことぞ。彼の城を奪い返すは、当家の威信を取り戻すことに他ならぬ。  そして今ひとつは、今や失墜してしまった将軍権威復活のため、幕府を正すこと。  わしは、去る天文(てんぶん)二十二年(一五五三)に、父氏親と母寿桂尼(じゅけいに)の意向により策定された今川仮名目録に追加の法を盛り込んだ。それは幕府が謳っていた守護不入の廃止を謳ったもので、これにより当家は、事実上足利幕府との関係を断ち切ったことになる。  つまり、此度の上洛は、幕府に謀反、反逆と取られても構わぬという覚悟の上での進軍なのだ。  だが、それも本をただせば幕府がいけないのだ。幕府は、当家の主家筋であるにもかかわらず、己らの威信を示したいばかりに、当家と弾正忠との戦の調停を行った。これは明らかに当家に対する裏切りであろう。  今や幕府の権威失墜は甚だしく、どうにかしてその威光を示したかったのであろうが、幕府自体が三好一党の傀儡政権となり果てた今、もはやそこには何の正義もない。  主家筋の不始末は、一門が始末せねばならぬ。同じ足利一門に列する当家にこそ、その責があるというもの。これは、そのための上洛である。  輿(こし)の中で揺られていたわしは、ふと簾を上げて外を見た。ちょうど緩やかに街道が右へ曲がっている。輿の中からは、行軍の様子がよく見えた。  外は晴れ渡っており、視界ははるか遠くの尾根まで広がっている。まばゆい光の中を行く我が軍の勇壮美麗な様は、まさに天帝軍の行軍のようである。 「わたしはな、承芳よ。民草が安寧に暮らしていくためには、静謐(せいひつ)な世、(じゃく)たる世をこそ作らねばならぬと、そう思うておるのだ」  不意に亡き兄上の言葉が胸に蘇る。あの頃は、兄上が言っていた「寂たる世をこそ作らねばならぬ」という言葉の意味がよう分からなんだ。なれど、今となっては痛いほどによく分かる。それしかないのだ。そのための天帝の軍なのだ。あと少しで手が届きますぞ、兄上。  わしが此度の上洛に輿で臨んだのは、何も馬に乗れぬ訳でもなければ公家にかぶれておるといった訳でもない。それはひとえに兄上にも都をお見せしたかったゆえ。この輿は、亡き兄上の形見なのだ。どこまでも続くこの軍勢に、さぞ兄上も心を震わせておられることであろう。  軍勢の中には、当家の家紋である足利(あしかが)二引両紋(ふたつひきりょうもん)の旗印が何本も並び立ち、風になびいていた。わしは、その中に赤鳥紋(あかとりもん)の旗印を立てさせていた。  当家初代当主今川(いまがわ)範国(のりくに)公が、駿府(すんぷ)浅間神社(せんげんじんじゃ)にて受けたご神託。 「赤鳥と共に戦うべし」  赤鳥と共にある限り、我が軍が敗れることはない。赤鳥こそは我が軍の守り神。赤鳥を戴く我が軍は、まさに神の軍、天帝の軍なのだ。  しかし一体今はどの辺りであろうか。軍勢は、駿府より出立し、東海道をひたすら西進している。まだどれほども進んでおらぬことだけは分かっているが。 「今はどの辺りぞ」 「は、まもなく大井川に差し掛かる辺りにござります。ちょうど藤枝(ふじえだ)の辺りかと」 「藤枝か……」  その名を聞くと、尾根のはるか彼方に花倉(はなくら)の城が見えるような気がした。ここからでは山に阻まれて見える訳もないというのに。  街道筋には、我が天帝の大軍勢を一目見ようと、大勢の領民たちが立ち並んでいた。  不意に、わしの視線は、その中にいた一人の男に奪われた。その男は、何とも寂しげな表情で、わしの乗っている輿の方を見ていた。血と埃にまみれた薄汚い戦鎧。  恵探! 「止めよ!」 「は?」 「止めよと言うておるのだ!」 「ははー」  わしは、咄嗟に声を上げていた。輿が下ろされると、簾を跳ね上げ、履物も履かずに外へと飛び出した。恵探がいた辺りに視線をやる。  いない。  領民らは、何ごとが起きたのか分からず、ただただ地面にひれ伏している。  周りを見回してみたが、やはりどこにも恵探の姿は見えなかった。ただ事ではないわしの様子に家人らが集まってきた。 「御館様(おやかたさま)、いかがなされましたか」  わしは、その問いには答えず、しばらく恵探の姿を捜した。そしてどこにもその姿が見えないことを確認すると、訝しげな表情でわしを見ていた家人らに、不審な人影を見たと告げた。 「やや、それは由々しきこと。あるいは織田が放った刺客やもしれませぬ。念のため、辺りを兵に見て回らせまする」  家人らは、そう言って、しばらく辺りを調べさせた。だが、やはり辺りには何者かが潜んでいるといった様子はなかった。  わしの見間違いであったのか。いや、あれは間違いなく恵探であった。わしが見間違えるはずがない。あるいは、まことあれが恵探であるならば、わし以外の者にはその姿が見えぬのではないか。あれとわしの因縁を思うと、そんな考えすら頭に浮かんできた。  不審な者が見当たらぬ以上、このままこの地に留まっていては行軍に障る。わしは、合点のいかぬまま進軍を再開させた。  再び動き出した輿の中で、頭に浮かぶのは恵探のことばかり。  恵探よ、そなたは何ゆえ今頃になってわしの前に現れたのだ。まさか、まことわしが討たれるとでもいうのか。  わしが今川家の家督を継いだのは、今から二十四年前のこと。当時、わしは僧籍にあって栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)と名乗っていた。  先代当主である兄、氏輝(うじてる)は、生まれながらにして体が弱かったため、家中では、もしもの際は次兄の彦五郎(ひこごろう)が家督を継ぐことと内々に取り決めされていた。  だが、氏輝の兄上が身罷ったその同じ日に、彦五郎の兄上もまた亡くなられた。  急な訃報に家中は色めき立った。そのようなことがあるはずがない。何者かの謀略ではないのかと。  わしの師父、太原(たいげん)崇孚(そうふ)雪斎(せっさい)様は、当主擁立を目論む福島(くしま)越前守(えちぜんのかみ)らの暗殺ではないかと考えたらしいが、決定的な証拠は遂に見つけられなかった。師父様は、後年になって、何やらその時のことに関しては、いまだに釈然としないのだとこぼしておられた。  わしは、当時、既に僧籍に入っておったし、特段今川家の家督など欲しくもなかったが、正室の子であるという事実が、わしを絡めとって離さなかった。母や周りの重臣らが放っておいてくれなかったのだ。そこには、福島越前守に実権を渡したくないという家中の思いが見え隠れしていた。  結果として、三番目の兄を推す福島越前守らとの家督争い、お家騒動が起きた。  三番目の兄上は、当時、わしと同じように既に僧籍にあったし、自身が側室の子であることも自覚されておられた故、まさか戦になるなどとは思いもしなかった。  だが、戦は起きた。そしてほとんどの重臣が、わしの側に付き、万に一つも勝ち目はなかったはずなのに、それでも三番目の兄上は、最後まで降伏しなかった。母寿桂尼が説得に赴いても、その抗戦姿勢は一向に変わることがなかった。何が兄上をあれほど勝ち目のない戦に向かわせたのであろうか。  その家督争いの果てに、わしは兄を殺すこととなった。むろんそれは、わしの本意ではなかった。だが、その時にはもう、兄の死なくして事を収めることはできない状況に陥っていたのだ。  わしが殺したその三番目の兄の名を、玄広(げんこう)恵探(えたん)という。  そう、幾日か前にわしの夢枕に立ち、此度の出陣の取りやめを訴え、今また街道筋にその姿を現し、寂しげな瞳でわしを見送った男だ。  恵探よ、何ゆえそなたは、今になってわしの前に姿を現したのだ。
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