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三、一場春夢 ―天文十八年(一五四九)―
「いやー、濡れた濡れた。兄上、おられまするかー?」
騒々しい声と共に現れたのは氏豊であった。たいていいつもこの末弟はこういう調子だが、今日はことのほか騒々しい。どうやら急な雨に降られたらしい。
氏豊は、近々催される亡き兄氏輝、彦五郎、それから恵探の十三回忌の法要に参席するため、私が住侶を務めている、ここ遍照光寺にやって来たのだ。
「兄上、おられまするかー?」
やれ、たかが雨に濡れたくらいでまこと騒々しい奴よ。
「そんなに大声を挙げずとも私はここにおる」
「おお、兄上。おられましたか。いや、こちらへ向けて出立した時は晴れておったというのに、着く頃になってこれこのように、すっかり雨に降られてしまいました。いや、まこと参りましたぞ」
小坊主が小走りで手ぬぐいを持ってきたが、やかましく言っている割に、氏豊の体はそれほど濡れてはいなかった。当たり前だ。輿に乗っていて濡れるわけがない。氏豊は、輿を降りてから寺社に入るまでの間に少し濡れたことを言っておるのだ。
「これもそなたの日ごろの行いの悪さのせいであろうよ」
「やや、これはこれは。泉奘の兄上は相変わらず手厳しい。少しはおれの苦労も分かってもらいたいものだ」
何が苦労か。氏豊の苦労などたかが知れておる。さほど濡れてもおらぬのに騒いでおるそなたの後ろで、輿を担いできた家人らがびしょ濡れになっていることに少しは気を回したらどうだ。
氏豊がもう少し周りのことに気付くことのできる男であったなら、もう少し周りの者に心配りのできる男であったなら、そう思ったことは一度や二度ではない。承芳は、何ゆえこんな男を都から呼び戻したのであろうか。
今川家は、先の三河安城の戦で織田家の織田信広を捕らえた。そして織田家の人質となっていた三河松平家の嫡子、松平竹千代を、信広との人質交換により取り戻すことで、三河での支持を得ることに成功していた。
私は、承芳に請われて何度か竹千代に漢籍を教えに行ったことがあるが、なかなかに聡明な男児であった。将棋などを指しても、三度に一度くらいは良い差し手を見せ、私を満足させる。
承芳もたいそう気に入っておる様子。いずれは竹千代に三河を任せ、嫡子氏真の補佐役にと思案しているのやもしれぬ。
「しかし、遍照光寺で法要をされるのなら、いっそのこと兄上が経を上げれば良いのではありませぬか?」
氏豊は、さして濡れてもいない衣を小坊主たちに拭かせながらそう言った。
「そうはいかぬ。そのあたりの差配は、全て雪斎様に任されておる。私がでしゃばることではない」
「義元の兄上は、何もかも雪斎様に任せ過ぎなのです。あれではいずれ雪斎様が参ってしまいますぞ」
「ならばそなたが半分でも請け負えばよいではないか」
「またそのような無理なことを仰る。雪斎様が任されておるようなことが、おれなどにできる訳がないことは兄上もお分かりでしょう」
己の無能を堂々と公言できるその面の皮の厚さのみは賞賛に値するな。
氏豊は、己の言いたいことだけを言うと、召し物を替えるため、庫裏の方へと消えていった。やれやれ、まことあのような男でも役に立つようなことがあるのであろうか。
氏豊と入れ替わりで小走りにやって来たのは、当寺院の小坊主二人だった。何やら深刻な顔をしている。
「いかがしたのだ」
私は、二人が口を開く前に先んじて問いかけた。
「はあ、それが蔵の掃除をしておりましたら、いつのものかも分からぬ書付が出てきたのでござります。中身を勝手に見るわけにもいかず、泉奘様にご覧いただいて、どうするかご指示を仰ごうと思いまして」
いつのものか分からぬ書付? はて、まるで覚えがないが。先代の住侶が書いたものであろうか。先代であれば、恵探ということになるが。
私は、この場で思案しても答えが出ぬ故、二人に付いて蔵へ行ってみることにした。
果たして蔵で私が手にしたのは、確かにかなり昔のものであると思われる、ところどころ変色した書付であった。私は以前どこかでこの書付を見たであろうか。封がしてあったので、私はその封を開けて中身を検めてみた。
やや、これは!
中に書かれていた少し滲んだ文字を見た途端、私の意識は、一気に十三年前のとある日に引き戻された。
そうだ。これは兄氏輝と彦五郎が二人同日に身罷られた直後、当家に不穏な空気が漂う中、密かに私を訪ねてきた恵探が残していった書付だ。蔵にしまい込んであることすら忘れてしまっていた。十三年目の法要の際に出てくるとは何の因果か。
私は書付にゆっくりと目を通しながら、あの日の恵探のことを思い出していた。まだ承芳に追い詰められる前の恵探のことを。
天文五年(一五三六)駿河国今川氏館――。
「して、そなたはどうするつもりだ、泉奘よ」
正面に座して、恵探は真っすぐに私の顔を見ていた。やはり、この機に私の前に現れたということは、そういうことであろうな。
今川家は、先代当主、父氏親が身罷った後、嫡子であった兄氏輝を当主としていたが、病弱であったため、もしもの際は次兄彦五郎が家督を継承する取り決めとなっていた。
父氏親には、私を含め六人の男児がいたが、長兄氏輝、次兄彦五郎以外の四人は、那古野今川家に養子に出された末弟の氏豊以外、皆僧籍に入っていた。これは戦国の世の常、余計な家督争いの火種を先んじて消しておくためだ。
だが、長兄氏輝が身罷った日と同日に次兄彦五郎が身罷ったことで、新たに家督相続する者を擁立せねばならなくなった。
他家の者となっていた末弟氏豊は論外、私も今川家の家督になど興味はなかった。それにそもそも私には何の後ろ盾もない。残りは二人。三男の恵探と五男の承芳。いずれかを還俗させて今川家の家督を継承させる動きが起こった。
順列からすれば兄の恵探ということになるが、恵探は側室の子。それに対して承芳は正室の子であった。
今川家の重臣らのほとんどが承芳を推した。実母である寿桂尼様や師である太原崇孚雪斎様も当然の如く承芳を推した。恵探には、万に一つの勝ち目もなかった。
だが恵探は家督争いから降りなかった。降りられなかったのであろう。恵探の母は、側室ではあるが、今川家の重臣福島家から嫁いでおり、その父、つまり恵探の祖父となる福島越前守が、恵探を当主にすべく一歩も引きさがらなかった故だ。
私には、恵探がそれほど家督に執着しているようには見えなかった。それ故お家騒動になることを案じた寿桂尼様の説得に恵探が応じなかったことに違和感を覚えていた。
恵探は、己に味方せよとは言わなかった。どうするのだ、と訊いたのだ。だが、それはすなわち、どちら側に付くのかという意味だ。
「私は、どうするつもりもありませぬ」
「それは俺の味方にもならぬが、承芳の味方もせぬということか」
「そういうことでございます」
「そうか。象耳泉奘なら恐らくそう言うのであろうなと思っていた」
「己に味方せよとは仰らないのですか」
「そう言えばそなたは俺に味方してくれるのか?」
私は黙り込むしかなかった。
「良いのだ。そなたが承芳に味方せぬだけでも、まだ全ての勝ち目がなくなったわけではないということだ」
燭台の炎が揺れて、赤く照らされていた恵探の顔も揺れる。まるでその心が揺れているかのように炎に滲んでいく。
「何ゆえそこまで家督に拘られるのですか。私には恵探の兄上がそれほど家督を欲しているようには見えませぬ」
何処から風が吹き込んだのか、炎の揺らめきがひときわ大きくなり、恵探の顔を一層炎に滲ませた。
「そうだな。俺は家督が欲しいわけではない」
「ならば、何ゆえ」
「……恐らく俺が何を言ってもそなたは信じぬであろうよ。いや、信じられるはずもないのだ。俺もそうであった故な。なれど、そうだな。言うなれば、当家のためだ」
「当家のため……」
恵探の言ったその言葉の意味は私には分からなかった。何ゆえ家督争いを起こすことが今川家のためになるというのだ。むしろ周辺国の大名らに隙を見せるようなものではないか。この機に乗じて攻め込まれでもしたら何とするのか。周りにいるのは、そういう血に飢え、目を血走らせている修羅の如き奴らばかりなのだ。
恵探は、それ以上私に何を言うでもなく、とりとめのない昔話などすると、「楽しかった、久し振りに話せて良かった」と言い残して去っていった。
それが私が恵探を見た最後だった。
あの別れ際、恵探は私にこの書付を渡した。
「俺がそなたに言うことは何もない。なれど、いつの日か、何ゆえ俺が弓矢に訴えてまで承芳と争ったのかをそなたが知るために、この書付を残していく。俺は俺のやるべきことをやる。そなたがどうするかは、その時になって、そなたの心に訊ねよ」
恵探は、確かそう言ってこの書付を私に渡したのだった。
書付を読み終えた私は、正直、驚きを禁じ得なかった。そんなことがあるはずもない。なれど、これがまことのことであるならば全てに合点がいく。
私は、あの時恵探が言った言葉の意味が、ようやく今分かった。
最後の一文字まで目を通したとき、そういうことだったのだと、不思議と書付に書かれていた内容を疑うことすらなくなっていた。なるほど、それで恵探は家督争いから降りるわけにはいかなかったのか。
私は、不安そうに私を見ていた二人の小坊主に訊ねた。
「法要に参席する方々は、もう皆見えられているのか」
「はい、もうほとんど集まっておられるようにござります」
「一つ頼まれてはくれぬか」
「何でござりましょう?」
「法要が終わった後で良い故、東三河の鈴木家、吉良家、それから酒井家、青野松平家のご当主らを呼び集めてほしいのだ。できれば他家の方々に分からぬように。適当にごまかしておいてくれればよい。どうだ、できるか」
「……はい、承知いたしました」
そうは答えたものの、小坊主二人は、やはり不安そうな顔でお互いを見合っていた。わたしが「何も案じることはない」と諭すと、ようやく少し笑顔を取り戻した。
「承芳を西に向かわせてはならぬ」
「何がならぬのですか」
不意に掛けられた声に、私は驚いた。いつの間にか着替えた氏豊が傍らに立っていたのだ。一体いつからそこにいたのか。
私は、体裁を取り繕うと、何でもないという顔で「ただの独り言だ」と答えた。
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