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四、花倉の乱 ―天文五年(一五三六)―
駿河国花倉城――。
「恵探殿、ここはひとまず落ち延びられよ。全てはそれからでござる。命あらば、いかようにでもなるというもの。ささ、早くに」
福島越前守の家人は、敵の矢を受けて肩から血を流している俺の体を支えながらそう言った。ここから逃げよと。
見れば己も腕や足から血を流している。俺は、いま一度心を奮い立たせ、「俺は一人で歩ける故、そなたもまずその傷の手当をせよ」と命じた。
攻め手は岡部左京進親綱。方ノ上城を落城せしめた猛将、当家の重臣である。左京進が総がかりを始めたのであれば、もうここも長くはもたぬであろう。どうやら御仏は承芳に味方すると決めたらしい。
いや、そもそも駿府の今川館を落とせなかった時点で勝負は決していたのだ。ましてや相模の北条氏綱が承芳に味方した今となっては、我が方に万に一つの勝ち目もないことは明らか。逃げ出す兵が増えるのも致し方ないことなのだ。
やはり、勝てぬのか。
いや、その問いかけはおかしい。そしてあまりにも無責任だ。勝てないことなど初めから分かっていたはずだ。俺は、そのことが分かったうえで、多くの者をこの戦に巻き込んだ。多くの未来ある者の命をあたら散らせてしまったのだ。何と罪深き事か。
順列で言うならば、長兄、次兄が身罷った今、三男の俺が家督を継ぐことは何らおかしなことではない。それでも家中が二つに割れ、そのほとんどが承芳に味方したのは、承芳が正室の子で俺が正室の子ではなかったという、ただそれだけのことだ。
だが、それだけのことがあまりにも大きかった。重臣の中で唯一俺に味方してくれた祖父、福島越前守の人望のなさも影響しているだろうが、あえてそれは言うまい。詮無き事だ。
父氏親の没後、家督を継いだのは長兄である氏輝だった。だが氏輝は、生まれつき体が弱く、長生きはできぬであろうと言われていた。それ故、もしもの時は次兄彦五郎が家督を承継するという取り決めまでしてあったというのに、あろうことかその兄二人が同じ日に身罷ってしまった。
何者かによる暗殺やもしれぬ。あまりにも不自然な兄弟二人の死は、様々な憶測を呼んだ。もちろん不要で不穏な物言いは禁じられたが、幾ら形の上で禁じようとて、人の口に戸は立てられぬ。
そう、それがこの戦の始まり。そして俺は、兄たちの死によって知ることになるのだ。当家に課せられた運命を。
承芳にだけは家督を継がせてはならぬ。たとえ我が命を捨てることになろうとも、承芳にだけは家督を継がせるわけにはいかぬ。家督に目がくらんだ恥知らずと罵られようとも構わぬ。俺一人が後ろ指を指されて済むのであればそれで良い。
俺は、花倉城を抜け出すと、わずかな手兵を従え瀬戸谷の普門寺に逃げ込んだ。
越前守はどうしたであろうか。無事逃げおおせたであろうか。我が身が危ういというのに、他人のことばかり気にかかるのは、一度は仏門に身を置いた者の性であろうか。せめて功徳があれば良いが。
どれほども時が経たぬうちに、外からは鬨の声が聞こえてきた。敵は、もう近くまで来ている。どうやら、これまでのようだ。俺は、自刃の決意を固め、これまで付いてきてくれた者らにその意思を伝えた。
「申し訳ございませぬ。我らの力が及ばぬばかりに」
皆、それぞれに涙していた。こんな俺のためになど泣いてくれるな。
「いや、俺の方こそ申し訳なく思っている。このようなことに付き合わせなければ、平穏に暮らせたであろうものを」
「何を仰られますか。我らは皆、己の意志で恵探殿に付き従った者ばかり。恵探殿を死なせる悔いはあっても、己の命が失われるのを悔いておる者など一人もおりませぬ」
ありがたいことを言ってくれる。だが、そんなことを言われては、尚更泣きたくなってくるというものだ。
我らは、しばしそうして名残を惜しんでいたが、敵はもうすぐそこまで迫ってきている。俺は、今はさらばと奥の間に入り、後ろ手に襖を閉めた。
事ここに至っては、もはや俺にできることは何もない。後は、かすかな望みを泉奘に託すのみ。それとてどうなるものかも分からぬ。
さて、いよいよという時になって、かすかに目の前の闇の中にふわりと浮かび上がるものがあった。
何だ?
それは、暗い部屋のちょうど真ん中あたりに浮かび上がってきた。よく目を凝らしてみると、そこに浮かび上がったのは、何と人であった。
「やや、誰ぞ」
「恵探殿、お会いするのはこれが初めてにござりますな。私が何者かお分かりになりませぬか?」
闇の中に浮かび上がったその怪しげな影は、次第にはっきりと人の形を成していき、最後には遂に一人の僧侶の姿となった。
「俺は、この世に生を受けてよりこの方、長く仏門に籍を置いていた。それゆえ確かに現世のことにはいささか疎いところがある。だが、そうとしても、今おまえが見せたような怪しげな術を使う僧がいるなどとは聞いたことがない。それこそ俺は、おまえが人ではなく妖ではないかと考えている。なれど、どうやらおまえは俺のことを知っているようだ。何者ぞ」
怪しいことこの上なかったが、俺は不思議とその僧から邪なものは感じなかった。ましてや恐怖心など微塵も覚えなかった。
「確かに拙僧は恵探殿をよく存じ上げておりまする。実際にお会いするのはこれが初めてにござりまするが。拙僧が残された最後の力を使い、こうしてここに現れたは、恵探殿に今一度お力をお貸しいただきたいからなのです」
嘘を言っているようには思えなかった。
「俺に力を貸してほしいと言うのならば、まずは名乗るのが礼儀であろう」
「まことこれはご無礼致しました。なれば、拙僧は、その名を千弦寂世と申します」
「何だと!」
僧は、驚く俺を真っすぐに見て、静かにうなずいた。
そんなことがあるのか。目の前の現実、男の放った言葉は、俺には到底理解できるものではなかった。だが、もしこの男の言うことがまことであるならば、闇の中から現れたことにも、俺をよく知っているという言葉にも全てに合点がいく。
駄目だ。いくら考えようとしても、俺ごときの頭では理解できるような話ではない。だが、まことそうであるならば、俺は、この男に訊きたいことがある。
「おまえが千弦寂世というなら」
「お待ちを。あまりゆるりと話している暇がないのです。ここは拙僧の頼みを聞き届けていただきたい」
そうだった。俺は、改めて今己が置かれている状況を思い出した。俺にはうなずくことしかできなかった。しかし、寂世の頼みは更に俺を驚かせた。
「今一度、承芳殿の元へ向かい、最後の説得を試みてほしいのです」
「そなたの言うことは分からぬでもないが、事ここに及んで今さら承芳が俺の話を聞くとも思えぬ」
「もちろん、そうであろうことは重々承知しております。なれど、出来得ることは全て試しておかなければ悔いが残りましょう」
それは確かにその通りだが……。そもそもどうやって承芳のところまで行くというのだ。今さらここから俺が出ていくわけにもいくまい。
「全て拙僧にお任せください。なれど、そう長くはもちませぬ。事は早々に」
そう言って寂世は俺に目を閉じるよう促した。
「少し気持ち悪くなりまするが、元に戻るまでは決して目を開けませぬように」
寂世は、そう断ると、目の前で何やら聞いたことのない念仏を唱えだした。その念仏を聞いているうちに、俺の意識は朦朧としてきた。あらかじめ断られていた故、目を開けることはなかったが、何やら体がぐにゃりと捻じ曲げられていくような、ひどく気持ちの悪い感覚が俺の全身を襲っていた。
しばらく経つと、寂世が言っていたように、感覚が元に戻ってきた。その頃になって俺は、ようやくゆっくりと目を開けてみた。
俺は、視界に飛び込んできたものを見て、思わず声を上げそうになった。
何とそこは俺が今までいた普門寺の奥座敷ではなく、どこかの屋敷の一室だったのだ。
どういうことだ?
ひどく暗いので夜だろう。しばらくして目が慣れてくると、俺は再び声を上げそうになった。足元で誰かが寝ていたのだ。もう少しで蹴とばすところであった。こやつは一体誰だ。その顔を覗き込む。
あっ!
俺は、三度声を上げそうになった。何とそれは承芳だったのだ。いや、承芳であることには違いないが、まるで一気に何十年か年を取ってしまったみたいに、その顔は年老いていた。これは一体どういうことなのだ。
「あっ!」
今度こそ、俺は遂に声を上げてしまった。俺は、あの書付に書かれていたことを思い出したのだ。なるほど、そういうことか。それで寂世は最後の説得と言ったのか。俺は全てを理解した。
「そこにおるのは誰ぞ」
俺の気配に気付いて、承芳が目覚めたようだ。
「やや、そなたは恵探。馬鹿な、これは夢か」
「夢ではないぞ、承芳よ」
「これが夢ではないというのなら、何ゆえ今ごろになって、わしの前に現れた、恵探よ」
承芳は、すっと起き上がると、鋭い目でまっすぐ俺を睨み据えていた。その目は、俺が知っている承芳の目ではなかった。鋭い中にもどこか無邪気さの残る優しい目ではなかった。闇よりも深く、見た者に恐怖と絶望しか与えないような、そんな恐ろしい目だった。
承芳よ、おまえはいつからそんな目をするようになった。俺の知らない年月を経て、おまえは一体何者に変わってしまったのだ。
「答えよ、答えぬか、恵探」
「ならば答えてやろう、承芳よ。俺が現れたは、おまえに道を示すためぞ。よく聞くのだ、承芳よ。よいか、此度の出陣は取りやめよ」
承芳は、俺の言葉を聞いて少し思案顔になった。だが、俺には承芳が己の考えを改めるとは、どうしても思えなかった。承芳は、俺にそう思わせるような、そんなどうしようもないくらい何かに憑りつかれたような暗い目をしていた。
「いかがでありましたか」
普門寺の奥座敷に戻ってきた俺は、寂世に小さく首を振った。それで全てが分かったようだ。恐らく寂世にも承芳の決意が変わらぬことは分かっていたのだろう。だからこそ寂世は、出来得ることは全て試しておかなければ悔いが残るなどという言い方を敢えてしたのだ。
俺は、今一度寂世に無理を言って、承芳が上洛するその時へ送り出してもらった。もう何をするつもりもなかった。遠くから承芳が西へ向かうのを、ただ見送るだけのつもりだった。
承芳よ、西には浄土しかないのだと何ゆえ気付かぬ。それとも、おまえは、その果てを見るために西を目指すのか。それを望んでいるのか。
不意に進軍が止まり、承芳を乗せた輿、兄氏輝が使っていた輿の簾が上がった。小用であろうか。もう会わぬ方が良かろう。俺は、承芳が輿から出てくる前に、その場から立ち去った。
承芳よ、先に行くぞ。おまえは、後からゆっくり来るがよい。
兄上、申し訳ございませぬ。恵探は兄上との約束を果たすことができませなんだ。あの世でいくらでも詫びます故、どうかお許しくだされ。
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