五、千弦寂世 ―大永六年(一五二六)―

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五、千弦寂世 ―大永六年(一五二六)―

 駿河国(するがのくに)増善寺(ぞうぜんじ)――。  今川館(いまがわやかた)で静かに息を引き取った父氏輝(うじてる)の葬儀は、およそ七千人を超える僧侶が参列するという史上類を見ない大きなものだった。喪主を務めたわたしが祭文を読み上げ、棺の綱は弟の栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)に、位牌は今一人の弟である玄広(げんこう)恵探(えたん)に持たせた。  喪主といっても、十三歳のわたしにできることは限られている。ほとんどのことは、母や重臣の者らが手配してくれた。わたしは、言われるがままに為すべきことを為したというだけのことであった。  思い返してみれば、わたしの記憶の中の父はいつも寝たきりであった。中風(ちゅうぶ)を患い、晩年のほとんどを床の上で過ごした。母や家臣らは、心のどこかで父の死を覚悟していたのだろう。実際、父が身罷った際、悲しんではいたが慌てた様子はなかった。  父は、病床に伏してはいたが、全く(まつりごと)を行っていなかったという訳ではない。己が死した後に家中に波風が立たぬよう、母や重臣らと相談し、細かい取り決めを定めていた。まこと真面目な父らしいことだ。幼くして当主となったわたしは、その取り決めによって救われることも多かった。  そんな父の死に、わたしは一粒の涙も流さなかった。人は、わたしのことを、冷たい奴よ、人の心を持たぬ奴よと罵るやもしれぬ。  だがそれは違う。悲しくなかった訳ではないのだ。武門の後継者として容易に涙を見せてはならぬといった決意があったという訳でもない。母や重臣らのように、心のどこかで覚悟していた、ということでもない。では何ゆえ泣かなかったのか。それはひどく簡単な理由だ。  知っていたのだ。  そう、わたしは、その日、父が死ぬことを知っていたのだ。 「兄上、何か俺にご用ですか」  振り向くと、そこには恵探が立っていた。  話しておかねばならぬことがあった故、人をやって呼んでおいたのだ。わたしは、人払いをさせ、持仏堂の奥の間で恵探と二人、向き合って座った。 「くたびれておるところ済まぬな」 「なんの、喪主を務められた兄上の方が余程お疲れになられていることでしょう。俺などは位牌を持って立っておっただけのことです。しかし、見たこともないような参列者の数でしたな。正直驚きました。皆も同じ思いでしょう。さぞや今川の威信も周辺諸国に響き渡ることでありましょうぞ」 「うむ、確かにな。父上と母上が、あらかじめ事細かに決めておられたこと故、恐らくは初めからそういう狙いがあったのであろう。己の死ですら政に利用してしまうところはさすがだが、見送る子としては寂しい思いもあるな。だが、それらも全て残された我らのためを思って為されたことと思えば何も言えまいよ。わたしの時もそのようにあらねばな」 「何を気弱なことを」  わたしが病弱なことは、恵探を始め家中の者らのよく知るところだ。恵探は、そんなわたしの弱気を戒めたのだ。 「そうだな。わたしがそんなことではいけないな。許せ。そなたの前だと、つい本当の思いを吐き出してしまう。それにどういう訳だかひどく疲れてしまってな。喪主とはいえ、わたしがやらなければならなかったことなどどれほどもなかったというのにな」 「兄上は繊細なのです。俺などが言うのも生意気ではありましょうが、それでいて芯はお強い。父上の死にも涙一筋流されぬ。兄上が嫡男でまこと良かった。俺にはその責は到底務まりませぬ。離れて暮らしておったというのに、俺は今でも父上のことを思うと……」  そう言って恵探は声を詰まらせた。わたしに言わせれば、わたしなどよりよほど恵探の方が繊細に思える。 「わたしがそなたを呼んだのは、まさにそのことなのだ、恵探よ」  恵探は、顔を上げると不思議そうにわたしを見た。 「わたしが泣かなかったのは、何も強いからなどではない。他にしかと理由があるのだ。実はな、わたしは知っていたのだ。父上がいつ身罷られるのかを」  恵探は、わたしの言葉を聞いて不可解な顔をした。そしてすぐにわたしに顔を寄せてきた。それは九歳という齢にふさわしい子どもの顔であった。 「知っていたとはどういう意味でしょうか」 「そのままの意味だ」 「兄上は、俺をおからかいになるために呼びだしたのですか。いかに兄上と言えども、今日の様な悲しみに包まれた日に、それはあまりにもひどいのではありませぬか。そもそも、そのようなことは兄上には、いや、誰にも知りようのないことではありませぬか。それともまさか御仏(みほとけ)が現れて兄上にそれを教えたとでも言うのですか」  恵探は、少し気分を害したようだった。 「御仏ではないが、御仏のようなものと言ってもおかしくはない。わたしはそう思っている。こと当家にとってはな」  その言葉で、恵探は一層釈然としない顔になった。 「まるで話が見えてきませぬ。一体どこの誰が兄上にそのようなことを教えたというのですか」 「彦五郎(ひこごろう)だ」  恵探は、思いがけない名前に驚いたのか、次の言葉に詰まった。 「彦五郎がわたしに教えたのだ」 「何ゆえ彦五郎の兄上がそんなことを知っているのですか。今日の葬儀に彦五郎の兄上の姿はありませなんだな。いかに体が弱いとはいえ、父の葬儀に出ぬとはいかなる所存か。そのことを兄上に問わねばならぬと思うておったのです。彦五郎の兄上は、それほどよろしくないのですか」 「いや、そうではない。恐らく、あれはもうおらぬ」 「もうおらぬ?」 「あれはな、彦五郎であって彦五郎ではないのだ。少なくともそなたの知っておる彦五郎ではない」 「今度は禅問答ですか。やはり今日の兄上はどこかおかしい。一体どうしてしまわれたのですか」  そこでわたしは、ひとつ大きく息を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出した。そうしなければ、これから話すことを上手く伝えられないような気がしたからだ。 「恵探よ。そなたが賢い奴だということをわたしはよく知っている。だから今からわたしが話すことを、途中で遮ったりせずに、どうか最後まで辛抱強く聞くのだ。最後まで聞いた後でなら、何を問い返しても構わぬゆえ」  恵探は、ほんの数瞬わたしを見て、静かにうなずいた。 「実は、まことの彦五郎は、当の昔に身罷っておるのだ」  わたしは、恵探が息を飲み込むのが分かったが、構わずそのまま話を続けた。 「今の彦五郎の正体は、先の世から来た承芳の息子なのだ。信じられぬであろうが、どうやらそれはまことのことであるらしい。先の世では、あやつは、そなたや承芳と同じように僧籍に入っておるそうだ。どのようにして我らの元へ来たのかは、わたしには分からぬ。あやつが言う時渡りの法というのが何なのかもよく分からぬ。”ぱらどくす”というものがどうのこうの言うておったが、まるで異国の言葉を聞かされているようで何を言うておるのか皆目見当もつかぬ。皆は、あれがまことの彦五郎だと思っておるが、それも致し方あるまい。確かにあやつは彦五郎に似ているからな。今川の血であろう。だがそうだとしても到底得心することはできぬ。分からぬことだらけなのだ。分かるのは、あやつが何ゆえ現世にやって来て、彦五郎の振りをしているのかという、そのことのみだ」  わたしは、そこまでを一気に話した。恵探は、わたしが言ったとおり、話を途中で遮ることなく辛抱強く最後まで黙って聞いていた。どうやら今の話を頭の中で整理しているようだ。何度もうなずいて、そして、わたしに話の続きを促した。 「あやつは、当家を滅びから救うために先の世からやって来たと、そう言うておる。今のまま時が移れば、間違いなく当家は滅ぶ。同じく時渡りの法を用いたという織田(おだ)弾正忠(だんじょうのちゅう)の子の手によってな。さすれば承芳の子である己がこの世に生まれ出でてこなかったこととなる。何とかしてそれは避けねばならぬ。故に当家を守ってほしいと、あやつはそう言った。もちろん、到底信じられることではなかった。あやつの言うたことは、わたしには一から十までまるで分からぬのだからな。なれど、あやつは、わたしがそう思うであろうことをも見越して、これより先に起こることを全て紙片に書き起こしていた」 「これから先に起こること全てを? もしや……」 「そうだ、恵探よ。その書付に、父の死は記されていたのだ」 「馬鹿な、そのようなことがあるはずがない」  我慢しきれず話を遮った恵探を、わたしは手を挙げて制した。恵探の気持ちはよく分かる。わたしもその話を初めて聞かされた時、同じ気持ちになったからだ。 「その書付には、まだこれから先に起こる出来事も書かれておる。それによると、今から十年の後、わたしは死ぬ。まあ聞け、恵探。その同じ日に、あやつ、いや彦五郎も死ぬ。死ぬという言い方であっておるかどうかは分からぬが。問題は、その後のことよ。よいか、恵探よ。よく聞くのだ。その後、もしも承芳が家督を継ぐことになれば、当家は間違いなく滅ぶ。わたしは、何とかしてそれまでに当家が滅ばずに済む方法を見つけ出すつもりだ。なれど、もしもそれが叶わなかったときは、その後のことをそなたに託したい。どうだ、恵探よ。この氏輝の願い、聞き届けてはくれぬか」  わたしは、懐から出した書付を恵探に差し出した。 「……」  恵探は、何とも言えない顔をした。それはそうであろう。このような話、すぐに信じられるはずがない。そもそも時をかけたら信じられるという話でもないのだ。それに恵探はもともと慎重な男だった。何ごとに対しても軽々しく安請け合いをしたりしない。だからこそ信じられるのだ。託すことができるのだ。 「兄上ー、兄上はおられますか」  わたしと恵探は、お互い顔を見合わせたまま、不意に辺りに響き渡ったその声にどきりとした。それが承芳の声であったからだ。 「今は信じられないのも道理。なれど、いつかこの書付のことを思い出してくれればそれで良い」  わたしは、早口でそう言うと、差し出した書付を無理やり恵探に握らせた。襖を開けて承芳が顔を覗かせたのはその直後だった。 「おお、ここにおられたのですか。あ、恵探の兄上も。二人で何の話をしておられたのですか。私だけのけ者にするとは、あんまりではありませぬか」 「いや、そういう訳ではないのだ。のう、恵探」 「はい。承芳よ、兄上には少々俺の繰り言を聞いてもらっておっただけなのだ。なれど、ひと通り聞いてもらった故、俺の気も晴れた。兄上、そろそろ俺は行きまする。また何ぞ用があれば人を寄越してください」 「え、もう行ってしまわれるのですか。折角私が来たというのに」 「そう言うな、承芳よ。そなたの話は今度飽きるほど聞いてやるゆえ。では兄上、俺はこれにて」  恵探はそう言うと、わたしに一礼してから部屋を出ていこうとした。だが、不意に立ち止まり、振り返ってわたしに訊ねた。 「そういえば、先程言っておられた僧籍に身を置いている者の名、まだ聞いておりませんでしたな。何という名でしょうか?」 「千弦(せんげん)寂世(じゃくせ)。それがその僧の名だ」  恵探は、その名を聞くと、何度か口の中で反芻し、そして今度こそ本当に部屋から出ていってしまった。 「せっかく久し振りに兄弟が揃うたというのに、恵探の兄上は冷たいお方だ」 「そう言うてやるな。恵探も少し疲れたのであろう。それよりどうしたのだ、承芳よ。何ぞ、わたしに用があったのか」 「特に要はありませぬが、お会いするのも久し振り故、少し話などしてみたくなったのでござります。もちろん兄上がよろしければですが」 「何だ、そのようなことか。わたしは別に構わぬぞ」 「まことですか。では恵探の兄上だけでなく、私の繰り言も聞いてもらうことといたしましょう。ところで恵探の兄上とは何の話をされていたのですか。何やら僧の名をお尋ねになられておったようですが」 「ああ、静謐な世、寂たる世を作るために何が必要かという話だ。いずれそなたにも話してやろう」  わたしは、黒く吸い込まれそうな目で見つめ返してくる承芳に、どこか危ういものを感じていた。これもこの先に起こることを知ってしまった故に、そう思ってしまうのであろうか。  のう、承芳よ。そなたは、まこと当家を滅ぼしてしまうのか。
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