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六、赤鳥何処 ―永禄三年(一五六〇)―
皐月一九日正午頃――。
威風堂々たる王者の構えで尾張国に攻め込み、丸根砦、鷲津砦という織田方の二つの要所を攻め落とした我が軍は、桶狭間の地でしばしの休息を取っていた。
暑い日であった。この暑さは兵にも堪えよう。しばらく休息を取った方が良い。わしの手足となって働いてくれる兵を大事にせねば、肝心の戦で後れを取ることになりかねぬ。もっとも織田など我が軍の敵ではないであろうがな。
藤枝で恵探の姿を見た時は、何やら先行きに一抹の不安を感じたものだが、蓋を開けてみればどうということはない。わしと師父様でこしらえた天帝の軍が織田ごときに後れを取るはずもなかったのだ。恵探よ、そなたの諫言は用なきものであったぞ。
その時、不意に日が陰り、辺りは薄暗くなった。何やら遠くの方から聞こえてくる音に耳を傾けると、その音は西の方から急速に近づいてくる。
雨――。
瀑布の如き勢いで激しく大地を打ちつける雨が我が軍を襲った。雨は、見る間に雹混じりとなり、我らの視界を遮った。先ほどまでの青空は何であったのか。この雨では進軍を再開するわけにもいくまい。今しばらくこの地で体を休めるほかない。
その時、雨の音に混じって、何か別の音が聞こえたような気がした。気のせいか。
いや、やはり聞こえる。徐々に大きくなっている。かすかに大地が揺れている。つまり、それはここに向かって何かが近づいてきているということだ。
鬨の声。
わしは、妙な胸騒ぎを感じて背後を振り返った。なれど、そこには何も見えなかった。そこにあるべきはずの物がなかったのだ。
馬鹿な。
当家の家紋、足利二引両と並び、あれほど雄々しくはためいていた赤鳥の旗印が何処にも見えないだと。赤鳥と共にあれば、我が軍は必ずや勝利する。その吉兆の象徴である赤鳥が何ゆえ何処にも見えぬのだ。
いよいよ鬨の声は近づき、目の前に足軽兵が現れた。明らかに敵であった。織田の奇襲か。うつけめ、やってくれたな。わしは、今度は声に出していた。声の限り叫んだ。
「赤鳥は何処か!」
桶狭間の大地を激しく打ちつける雹混じりの雨にかき消されたのか、誰一人として、その声に応える者はいなかった。(了)
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