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心の傷
「リツくんのお母さん遅いねえ。もう三十分も遅刻……」
「ぐしゅん、ぐしゅん」と鼻の奥を鳴らせている三歳児をだっこした夏子さんが前髪を掻き上げ壁時計を見上げる。
私は早くプレイルームの掃除を済ませて帰りたいのだが、整頓されてしまうとリツくんが余計にぐずつくのがわかっているから、できないでまごまごしている。
「ミアヤ、もう一度電話してくれない?」
「はい、わかりました」
どうせ出ないだろう。でも、先輩保育士の夏子さんの指示だから逆らえない。事務室に行きしぶしぶ受話器を取り上げる。
「今駅の改札出たところです。あと10分で着きますから……」
三度目でやっと電話に出たリツくんのお母さんは、それだけ言うとぷつりと切った。冷たい風が吹き抜けたような気がして、胸がキュウッと冷え縮みあがる。私は受話器を耳にしたまま突っ立っている。足の裏が地面にくっついてしまったように。
「おかあさん、はやく……。あやちゃんはいいこにしてるよ。なかないでひとりでるすばんしてるよ。あやちゃんをひとりにしないでよ。おそとはもうまっくら。こわいよう……」
無意識のうちに受話器に向かってつぶやく私。身体が硬直している。額には冷や汗。瞼にある映像が浮かぶ。幽霊でも見たかのように震えおののく私。
強い風が家中の窓を鳴らしている。カタコトカタコト──その不気味な音は二十歳になった今でも耳に鮮明によみがえってくる。
まるで悪い人が、いや亡霊が、窓の隙間を見つけて入って来ようとしているよう。六畳間も、台所も、玄関も、トイレも、すべての蛍光灯をつけて家の中はこんなに明るいのに、ベランダの掃き出し窓は真っ黒。流し台の前の窓に揺れて映っているのは何? 恐い男の人が立っているに違いない。小さな私は頭から布団をかぶりブルブル震える。
「おかあさん、こわいよう。おなかすいたよう。はやくかえってきて、あやちゃんをだっこして……」
ポンと肩を叩かれ、きゃっ、と甲高い声が漏れた。映像が消え去り、現実に引き戻された。
振り向くと、夏子さんだった。
私はとっくに切れた受話器を手にしたまま立ちすくんでいたのだった。
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