心の傷

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「ミアヤ、大丈夫?」  リツくんをよしよしとあやしながら、心配そうに覗き込んでくる。 「具合が悪いのなら、もう上がったら?」  私は、いえ、と言って、慌ててブラウスの袖で涙を拭く。 「わ、私、何やってんだろう……。大丈夫です……」  無理やりくちびるを引っ張り、作り笑いをする。 「だから、アンタ、『ミア』なのよ」  夏子先輩に頭を撫でられた。母にも撫でてもらったこともない悪い子の私を彼女は優しく撫でてくれる。この人がお母さんならよかったのに……。 「『ミア(미아)』って言うのはね、韓国語で『迷子』って意味なの。『ミアヤー(미아야-)』って言うと、『迷子ちゃーん』ってことね」  Kポップファンは韓国語にも詳しい。  私、片岡美彩(みあや)二十歳(はたち)になっても迷子だ。自分が今どこにいて、何をすべきか、何を言うべきか、頭が真っ白になってわからなくなる時がよくある。何が食べたいのか、何を着たいのか、どんな男が好きなのかという自分自身の基礎的な欲求でさえ掴めないおバカさんだ。いつまでも「うん」といえない私にしびれを切らしてカレシは離れて行ったし、「いや」といえない私は悪い男の一夜限りの慰みものに成り下がった。  どこにいても、ここは私の居場所じゃないと思う。ここは、誰かの場所。誰かの家。いい子にしていなければならない場所なのだ。何をしても、これは私のしたいことじゃないと思う。そうしなさいと誰かに命ぜられたことなのだ。  ──母親に可愛がられなかったのは、自分が悪い子だから。  いつもそう思っていた。二十歳(はたち)の今でもその濃厚なシミは抜けない。  児童虐待の文脈で最近よく「ネグレクト」という言葉が使われる。私には、親にネグレクトされるのは子供が悪い子だからだという先入観がある。私が悪い子だったから、一人ぼっちにされていたのだ。いつもおなかがすいていたから冷蔵庫が空っぽにされたのだ。私がお母さんの後を追ってばかりいたから罰を受けたのだ。私は罰される子供。したいことをできる権利なんかない。食べたいものを食べてもいけない。遊びたいときも遊んではいけない。なぜなら私は、いてはいけない子供。それがこうやって存在しているから、当然罰される……。私が悪い子であると仮定すると、すべてのことが合理的に説明できるのだった。  なぜそんな先入観が出来上がったのかわからない。物心つく前から母に言われていたことが、少しずつ沈殿し、幼年期全般にかけて分厚い地層になり、私にそう思わせ、そう行動させているのだろう。たぶん。地層こそが私。それを掘り返したりしたら、その瞬間から私という存在は崩れ去るだろう。  実を言うと、自分のからだも自分のものだという実感がない。いつもペコペコのお腹は私のものであってほしくなかった。しょっちゅう熱を出してお母さんを困らせていたひ弱なカラダも私のものであってほしくなかった。夜と暗闇と一人ぼっちが怖い弱い心も私のものでなかったらよかったのに……。  当てもなくさまよっていた魂が偶然見つけて飛び込んだのがこのカラダ。私が入って大人しくしていなければないカラダ。周りの人に合わせて動かなければならないカラダ。私の自我とこのカラダとは結び合う何ら必然性もない。
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