フ・ク・シュ・ウ

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 コンコースを出ると、黒塗りの高級車がスーッと目の前に止まった。夏子さんが助手席に乗り、私と竹田くんは後部座席に乗り込んだ。 「モンジョ、サムシレ カジュシゲッソヨ?」  夏子さんが運転手に慣れた韓国語で行先を告げる。 「ハイ、ワッカリマシッタ」  運転手は韓国人だ。こんな立派な車を運転するのに、服装は極めてカジュアルだ。ジーンズにカラーシャツ。四十代前半ぐらいに見える。夏子さんとは気心が知れ合ってるようだ。 「運転手のカンさんね。日本語ほとんど聞き取れる方だから、注意してね。車の中でエロ話なんかしたらみんな聞かれちゃうんだから」 「ハーイ、チューイッくださいネー!」  ちょっとおかしな日本語も手伝ってカンさんへの親しみが一気に上がった。 「あ、それから、主人がね、ビジネス上おふたりは夫婦ということにしてくれって。だから、美彩ちゃん、韓国にいる間は『竹田夫人』ね。よろしく」 「はい……」  顔が熱くなって、隣の竹田くんを上目づかいに見ると、彼はニヤッと笑って私の肩に手を回した。 「それにしてもさあ、人生なんてわからないものよね。竹田くんはひと月前まで保育士。美彩に至っては三日前のこの時間、まだ園児にご飯食べさせてたんだよ」 「ええ、幸い園長先生が理解してくださったおかげで……」  人生って本当に予測不可能だ。どんな人と出会うかで行き先が変わってしまう。見える風景だって、ほら、こんなに。  車は真っ白の長い吊り橋を行く。どこまで走っても尽きない長い長い吊り橋。何台ものリムジンバスとすれ違う。バスの正面ウインドウには出発地と行き先がハングルで表示されている。  車窓から見下ろすと海が沼のようになっているのが不思議だった。 「インチョンの海辺は干潟になってるんだね」と竹田くん。 「ヒガタ……」  日本語なのにあまり馴染みのない言葉。運転席と助手席で交わされているのは外国語。ああ、やっぱり外国なんだなと、ちょっと緊張した。竹田くんを見上げると、小さい声で、大丈夫だから、と言って微笑んでくれた。頼もしい。  一時間ほどで事務室に着いた。ソウルの中心、カンナムという地区らしい。 「じゃあ、テレポートはトライアングルでないとだめってことなのか」  田中社長のため息交じりの声。三十後半なのに、おじいさんみたいなかすれ声。 「いや、双方向がダメというだけで、クアッドでもクアトロでも可能です。ただビジネスである以上顧客と会社の関係はできるだけシンプルな方がいいでしょう。となると、やはりトライアングルが最適かと……」  竹田くんの声に張りがある。保育士時代が嘘のよう。敏腕事業家と対等に議論している姿は自信が溢れ、垢ぬけてカッコいい。 「あの声、酒焼けなのよ」  接客室付属の給湯室。夏子さんがコーヒードリッパーをセットしながら言った。 「お金とお酒が大好きな人でね。そのおかげで私も食べたいものを食べ、着たいものを着、乗りたい車に乗り、行きたいところに行ける。でもお酒はちょっと考えものよ。あれ、男を腐らせるわ」 「からだがどこか悪いんですか……?」 「ふふ、そうじゃなくて。……夜の生活のことよ」 「夜の……」 夏子さんの言いたいことが今やっと理解できて、顔が赤くなる。
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