心の傷

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 その母も私の高校卒業とともにいなくなった。やっと子育ての義務から解放されたと思ったのだろうか。専門学校二年分の学費だけを残し、男のもとへ走った。戻ってきてほしいなんて思わない。だって、私も高校生になって気づいたのだ。「母」は私の人生で欠けていることが当たり前の部分だったってことを。 「どうでもいいや、って感じなんです。やりたいこともないし、やったところで何がどう変わるというわけでもないし……」  ぼんやりと言ったら、先生は丸い顔を一層丸くして、 「あーん」  と口を開いて微笑んだ。  何を言われたのかわからなくて目を点にしていると、 「口を開けてごらんなさい。ほら、あーんって」  口の中に何か突っ込まれるのかと思い一瞬身構えた。三角顔の母にはワサビのかたまりを突っ込まれたことがある。幼稚園生の時だった。でも、まん丸のこの先生がそんなことをするわけがない。  言われたまま口を開けた。目をつむって恐る恐る。小さなかけらが舌に置かれた瞬間、恐怖がナイフのように後頭部に突き刺さった。息が止まり、鳥肌が立った。ワサビを突っ込まれた時の後遺症がまだ残っていたのだろう。  それは板チョコのかけらだった。カカオの香りにほっとして、くちびるをゆっくり閉じてゆく。ちっちゃなかたまりを舌と上あごの間にはさんでみた。ジワーッと柔らかくなってゆく。噛んでみるとトロリと甘い。何度も何度も噛んだ。この甘さがいつまでも口の中に留まってほしいと思ったら、鼻の奥がツーンとしてきて、ポロリと涙がひと粒流れた。 「よしよし……」  先生が私の背中を抱いて、ポンポンと叩いてくれる。  声を出して泣いた。なぜ泣いているのかわからなかった。でも、それは「しあわせ」に関係があることだと、うっすら理解していた。  どうして私にはこんな優しい母がいなかったのだろう? 生まれた時から無い物だらけだった。そんな境遇をいまさら恨みはしない。ただ、深いため息をついて心をうつろにするだけだ。泣こう。もっと泣こう。まんまる先生の胸の中で。うつろな心を涙で満たそう……。  夏子さんは私のことを迷子(ミア)だというが、そんな私にもたった一つの「家」がある。──まんまる先生がくれたチョコレートの味。形のない、記憶の中にしかない家だけど、つらいことがあるとそこに帰って「しあわせ」について考えてみる。そこが、私のたった一つの「家」なのだ。
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