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尻餅をついた状態のまま、山里真香はしばらく呆然としていた。
1、2分ほどそうしていただろうか。ようやく心ここに在らずといった状態から覚醒する。
口の中が酷く乾いていた。
舌が干からびているような感じで、うまく動かすことができない。
粘りけのある唾液を必死に集め、なんとか喉に流し込む。
酷く暑い日だった。顎から汗が滴り落ちる。
汗を拭い、体勢を整えた。
(せーのっ!)
まるでビリヤードのキューで玉をつくように、右足を勢い良く前方に蹴り出す。
ゴンッ! と鈍い音。
足の裏は、目の前で白目を剥いて横たわっている人物の顔面に命中した。
いったん向こう側を向いた頭は、蹴り込んだ反動ですぐにまたこちらを側を向く。
恨めしそうに見開いた目が、真っ直ぐ真香を捉えていだ。いや、その目はただ真香の方を向いているだけで、見ているわけではないはずだ。
その証拠に、目には正気を放つ光はなく、くすんだガラス玉のようだった。それが余計に不気味さを醸し出している。
真香は体を震わせた。
その人物の顔は血の気が失せて青白く、分厚く醜い唇の口の端から唾液がこぼれる。糸を引きながら床に垂れた。
絶命しているのは明白だった。
真香は震える両手に視線を落とす。
親指の付け根から小指の付け根に向かって、一本の真っ赤な筋ができていた。
鬱血してしまっているようだが、痛みはない。これがアドレナリンというヤツのせいなのだろうか。
真香は再び視線を戻す。
横たわる目の前の人物の首にも同じものがあるが、真香の手のひらのものよりもずっとドス黒い。血液が流れていないからだろう。
(や、やってしまった……)
今さらになって事の重大さに気が付き、さらに汗が吹き出して来た。
次第に震えは全身に広がっていく。
(け、警察に……)
スーツのポケットからスマートフォンを取り出そうとしたら、つかみ損ねて床に落としてしまった。
(しまった……)
手を伸ばすと、その上に白くて華奢な手が重ねられる。
「こんな……こんな奴のために……ママが刑務所に行っちゃうの……」
娘の芽愛である。
三日月型の黒がちな大きな目に涙を溜めていた。いつもなら背中で揺れているきれいな黒髪は、顔にかかっている。それを払い除けもせず、真香の手の上に置いた自らの手に力を込めるのだった。
「ヤダよ……そんなの絶対にヤダ……」
でも──と、言いかけて、真香は言葉を飲み込む。
芽愛の形の良い薄い唇の端から、血が垂れているのを見たからだ。
もしかすると露わになった小ぶりな乳房を見たからか。
それとも股の間から血と一緒に内腿を流れる、白濁したおぞましい液体を目にしたからなのか──
とにかく真香は、先ほどまで支配していた『何か』がどこかに消え去っていくのを感じた。
(そうだ。こんな奴に人生を台無しにされるのは、二度とごめんだ!)
自分の手の上に重ねられていた手を優しくどけると、真香は力強く娘を抱きしめた。
「このまま隠蔽してしまおう」
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