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それからミユは僕を見かけると話しかけてくるようになり、お互い名前で呼ぶくらいの距離感になった。
「うちの弟と同じ年とは思えないねー! ほんと君は大人だわ……」
そう言ってくれるのは嬉しいけれど、言われた次の瞬間に僕はサングラスのつるをぶっ壊した。
「あーあ、くそっ、やっちまった」
「わーぁ、そんな汚い言葉も使うのね」
ミユは壊れたサングラスを覗き込んだかと思うと、僕を見上げる。僕の肩よりも下、胸の辺りまでしか背が無くて、こんなに小さい人が僕よりも年上なんだ、と思うと不思議な気がする。
「僕は元々そういう人間ですよ」
「あんなに美しい詩を書くのに⁈ じゃあ語彙が豊富なのね」
ミユが笑っているのを見たら、サングラスが壊れたことなんてどうでもいいように思えた。
「ねえあの詩人の……」
彼女は詩も書くがとにかく詩を読むのが大好きで、有名な詩人はもちろん、マイナーな詩人の自費出版の本まで集めるような人だった。その知識はゼミ一のマニアックさだったから、皆図書館に無い本でもミユならもってるだろう、と彼女の蔵書を当てにした。そしてほぼ持っているものだから、驚きながら借りていく。
「ミユさん、僕その人知らないです」
「えー⁈ 意外!」
「是非読んでみて! タカトシ君気に入ると思う! 今からうちくる? この後講義ないでしょ?」
「え⁈ いいんですか?」
「いいよ、皆本借りに来るから」
女性の部屋に行くということで僕は緊張したが、彼女はゼミの人が来るだけなのだから、その温度差といったらなかった。
「さあ、上がって。どうぞ~」
「あ、お邪魔します……」
「こっちの部屋が、本の部屋!」
ミユが玄関に近い部屋の扉を開けると、詩集がびっしりと本棚に並んでいた。
「うわあ、すごいな……こんなに詩集がたくさん……」
「好きなの読んでね。この本のせいで、何度引っ越したか……フフフ……バイト代を家賃と本につぎ込んでるからね」
「ミユさん目が白目ですよ」
「言わないで! これしか自慢するところがないのー! 自慢させてこの部屋を!」
この人、オタクだ。詩集オタク。
ミユの部屋は、本来であれば寝室になる部屋が本の為に充てられていた。他にはソファと小さなテーブルしかなかった。
「本の重さで床の底が抜けたら大変だから、最後は一階で鉄筋コンクリートの建物って決めて探したんだ~」
「女性一人で大丈夫ですか? 一階で」
「ねえ、この部屋、女の部屋に見える?」
ちょっと来てみて、とリビングへ連れて行かれた。本当に何もない。ベッドと、テーブルと椅子と、棚。カーテンは寒色系だ。
「見えませんね」
「でしょ? だから大丈夫なのよ。洗濯物も室内干しだし」
全てのものを詩と詩集につぎ込んでいる変わった女の子。好きなことをしている人は何だかキラキラしているな。
「地震が起きたらどうするのって言われるけど、好きな詩集に埋もれて死ぬなら本望だわ」
「ミユさん、その発想ヤバいですよ……」
「詩が好きな人間がヤバくないわけないでしょ? 君だってそうでしょ? 天才少年タカトシ君!」
「だからソレやめてくださいってば」
「ゴメンゴメン。本の部屋に行く? ドリンク持ってくるから本見てて。コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「あ、コーヒーがいいです」
「りょうかーい、ちょっと待っててね」
僕は詩集の詰まった部屋に再度入った。本の匂いはいつも僕を幸せな気持ちにしてくれる。読んでみたかった詩人の詩集があった。絶版になっているやつだ。置いてあるソファに座って読む。居心地がいいな、この部屋。
「……お待たせ」
ミユが飲み物を持ってきてくれた。
「”君は知らない 僕も知らない ずっと知らない”……」
彼女は僕が読んでいる詩の一部を諳んじた。
「覚えてるんですか?」
「好きな詩はね。少しだけよ覚えてるの。はい、コーヒー」
「すごいな。ありがとうございます」
自分が書いたものではない詩を覚えているというのはすごい事だと思う。
それから僕たちは、ソファの右と左に座り、それぞれに詩集を読んだ。
飲み物を飲んだり、飲まなかったり、脚を組み替えたり、この詩はいいと教え合ったり。
日が当たってポカポカ陽気だ。気づけば、僕たちはもたれ合って眠っていた。
最初に気付いたのは僕だった。
目を覚ますと、左側がやけに暖かくて少し重たい。ミユが僕に寄り掛かっている。状況を把握した僕はケチャップを塗られたぐらいに顔が赤くなっていた。胸の中にもトマトの酸っぱくて濃縮された味がする。
これはシャンプーの香り? それとも香水? 柔軟剤? 何だろう、いい匂いがする。
ウトウトするからずるずると彼女の頭が前に落ちる。このままでは僕の脚に膝枕してしまう。いやさすがにそれはマズいだろう! 咄嗟に左腕でミユの肩を抱いた。起きるかなと思ったけど、そのまま寝ている。規則的な寝息が聞こえる。
女の人って小さいな、と思う。
少し半開きの唇を見てドキッとした。こんなに無防備で大丈夫なんだろうか、この人。男が変な気起こしたらこのまま食べられちゃうぞ。
――困ったな。起こせばいいんだろうか。今何時だろう? 日が暮れてきたから夕方かな? 見回すが時計は無い。スマホは彼女の向こうにあるテーブルの上だ。
「……ん……え? うわっ⁈」
突然ミユが目を覚ました。僕が肩を抱いてるのにびっくりしたらしい。
「すみません、倒れそうになってたんで……」
「そう、なの?」
彼女が寝ぼけてまだよく開いていない目で僕を見上げる。
「僕も寝てて……起きたらミユさんも寝てて」
「確かに……タカトシ君が先に寝たんだよ。私もそれから寝ちゃったんだね。ごめんね、支えてもらって」
まだ肩を抱いていたから、慌てて手を離した。心によぎった気になる事を訊いてみる。
「……ミユさん、いつもこんな風に寝ちゃうんですか?」
「ううん。初めてだよ、詩を読みながら人と一緒にうたた寝したの!バイトが忙しかったからかも」
新しい発見があったかのように、ミユは笑顔で答えた。
僕は、詩集を三冊、借りて帰った。
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