紗夜5

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紗夜5

 帰宅してシャワーを浴びた後。すぐにファンレターを書き始めたが、あっさりと座礁した。 「なんて書けばいいか、わかんない……」  伝えたい気持ちは有り余るほどある。  意味が理解できなくてもすごく惹かれたこと、あなたの詩のおかげでこんなにも胸が高鳴っていること。  先生への尊敬と緊張と愛おしさと、自分への気持ち悪さが一気に指先へ押し寄せる。  鉛筆が便箋に触れることすら、躊躇ってしまう。  ふと自分が息を止めていることに気づき、慌てて空気を吸った。  呼吸を重ねるうちに、焦ったさが熱を帯びて込み上げてきた。たまらず、ベッドに飛び込む。 「あぁもう、なんで書けないの……?」  枕に顔を埋めて表情筋を鼻に寄せていると、ドアがノックされた。 「紗夜、ごはーん」とドアの向こうから、母の声が響く。 「今行く……」  私はそう言って、枕を思いっきり締め上げた。  考えるのはご飯食べてからにしよ……。  食事中、母が聞いてきた。 「あんたさっき部屋で何やってたの?」  私は白飯を詰まらせかけて、水を飲み干す。 「……ええ、言わなきゃダメ?」  ファンレター書いてるって、親に言うのめっちゃ恥ずかしい。 「気になるコにラブレターかなって、思ったんだけど……?」  母の推測が私の心臓を貫くように放たれた。 「ラブっ……まあ、似たようなもんか」  異様に鋭い母の勘に畏れをなし、私は月詠先生と詩について正直に話した。 「なるほど、だから便箋なんて買ってたの」 「みっ、てたんだ……」 「うん、なんか恋する乙女だったよ? 頭にお花咲いてた」  恥ずかしさを誤魔化すように、私は無言でご飯を口に運ぶ。  気恥ずかしい数秒の沈黙を、母が破った。  驚いたような安心したような、穏やかな声音をしていた。 「ていうか、思い出してたのね。ハルちゃんのこと」 「……ハル? 誰?」  首を傾げた私に、母は「あれ?」と眉を八の字に曲げる。 「覚えてない? 朝倉ハルちゃん」  母は続けざまに言った。 「あなたがゾッコンの、月詠帳の本名よ」  食器を片付けたあと、私は無言で自分の部屋に戻った。  5年前、怪我で入院したあの夏、私は月詠先生に出会っていた。彼女をせんせと慕い、よく病室に遊びに行っていた。 「全部、思い出した……」  彼女の詩が、彼女自身のことが好きだったことも。  一緒に夜空を見て、ふたつの約束をしたことも。  同時に、私がせんせのことをすごく好きだったことも。 「ああ……だから、あの詩が好きなんだ」  そう吐露したとき。心の奥底で絡まり続けていた糸が、一気に解けた気がした。  我ながらドラマチックで現実味がない記憶。 でも懐かしくて、どうしようもなくハッキリと、愛おしい。  私は机に置いてあった『落ちて生まれて』を、そっと抱きしめる。  紙の手触りが指に吸いつく。昔、せんせと手を繋いだときのような安心感が、私を満たしていく。  さっきの迷走が嘘みたいに、ファンレターに書くことが決まった。  約束は果たせた。あと一冊は残ってるけど、忘れていたけど、どうにか。  詩集を抱いたまま、机に向かう。散らかった便箋をまとめ、ペンを持つ。  淡い青の便箋の上を、ペンが凄まじい速度で走る。  6年ぶりに再会した記憶と感情を綴りながら、会いに行きたいと願った。  最後に切手を貼り終えたのは、深夜と朝の境目だった。  誰もが寝静まった暗い外を見て、全身に溜まった充実感をため息と一緒に吐く。  このまま寝ようか、と思ったけど、我慢できずに封筒を持って外に出た。  夜道を、補導されないかドキドキしながら進み、郵便局の前に着く。  真っ赤なポストが、街灯に照らし出されている。 ファンレターをポストの口に当てたところで、手が震えた。  本当に送っていいの? 誤字はなかった? 私だって、ツムギだってわかる?  思考停止していた私を、夜風が強めに撫でた。  ポストの口がカタンと質素に響き、私は手を離した。 「ちゃんと届きますように」  誰にも聞こえないくらいの声でそう呟いて、小さく手を合わせた。  不安は残ってるけど、この思いが届くと信じたい。せんせの名前は私に届いたって、どうか伝わって。  ふと空を見上げると、夜の帳が上がり始めていた。  燃えるような朝の到来にあくびをして、来た道をこっそり戻る。  その朝、昔の夢を見た。  夢の中は5年前の夏で、私はせんせと病院の屋上で星を見ていた。  せんせの手を握り返したとき。  思ったよりも細くて、温かくて、壊れそうで、怖かった。  詩を書いているときの真剣な横顔が大好きだった。  だから好きって言う代わりに、頭をくっつけたんだ。  せんせの頭の感触を曖昧に感じつつ思い出す。  もしせんせに会えたなら、なんて言おう。  どんな声かな? 昔と変わらず落ち着いた優しい声かな……?  最初になんて言うかな? なんか久々すぎて、お互い気まずくなりそう。  でも、何より私のこと、覚えてくれてるかな……。  視線を右にやると、せんせは黒縁の眼鏡の奥で瞼を閉じていた。  私は目が覚めるまで、その寝顔をじっと見つめていた。
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