紗夜6

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紗夜6

 結局、本は見つからないまま。夏休みが明け、学校が始まった。  ステージの上で長々と話す校長の、メガネを見つめながら、私は。  ファンレターの返事が来ていないことを、気にしていた。  まぁ来ない可能性だって十分あるわ……。  よくよく思い出したら、あれ口約束だったし。しかも11歳のときの。  返事がくると普通に思ってた昨日までの自分が、痛々しくて恥ずかしい。  でも、もしせんせと再会したら、という妄想は止まらない。  目は開けてるのに、脳内のせんせの映像が視界をジャックしている。  校長の声も霞んでよく聞こえない。代わりにせんせの声が懐かしく、しっとりと響く。  心臓の裏をくすぐられるような気分に浸っていると。 「紗夜、大丈夫? 変だよ、表情が……」 「へ? あっ……!」  横の頼子に指摘され、すばやく自分の顔を両手で揉んだ。  上に引き攣った頬に、飛び上がりそうになった。  いま顔に出てた……。  側から見たら危ない女か、恋で盲目になってる痛い女だな、私。  私は軽く息を吐いて気持ちを切り替え、再び校長のメガネを注視した。  下校したのは、お昼前だった。  通常授業の日とは違った充実感からか、下校する生徒の足取りは、どこか軽やかに見える。  私と頼子の足取りも、軽やかだった。  風が吹くと涼しい木陰の道を、ふたり並んで歩く。制服のネクタイを緩めると、首元がスッキリ快適になった。 「楽しそうじゃん、何かいいことでもあった?」と、頼子が聞いてくる。 「うん。いいこと、っていうか……」  私は先日思い出したことを、6年前の出来事をかいつまんで話した。 「……え、嘘でしょ?」  頼子は半笑いで、目を見開く。 「ホントだよ! 嘘みたいだけど……」 「そっかぁ……」  頼子の微妙な返答に、私は眉毛を少し寄せて聞いた。 「信じてない?」 「いや、紗夜が言うなら本当のことだろうけど……」 「……けど?」  短く黙ったが、頼子は首を振って笑った。 「なんでもない。会えるといいね、月詠帳と」  頼子の視線は、道の先の方に向いたままだった。  木陰が途切れたアスファルトの上で、陽炎が静かに揺らいでいる。  あれ? 前もこんなこと、あったような……。  なん、だっけ……。  小さなトゲが刺さったように、手の届かないもどかしさで。  私は「うん」とだけ頷いた。  家のドアを開けると、暗く静まり返った玄関が奥に伸びていた。 「ただいま〜」  母は買い物に行ってるのか、人の気配は全く感じられない。  父はもともと単身赴任中だから、いるはずがない。 「誰もいないのか」  呟きながら、ローファーを玄関の出っ張りに引っ掛けて脱ぐ。どうせすぐ帰ってくるだろうし、鍵もかけなくて良いか。  廊下の奥にあるリビングに入ると、ほのかにエアコンの涼しさが香った。  庭につづく大きな窓からは、燻んだ光が差し込んでいる。カバンをソファに置いて外を見てみると、鈍色の雲がずっしりと広がっていた。  さっきまで晴れてたのに、嫌な天気だな……。 「あ……傘、持ってったかな?」  出かけている母の心配をしながら、キッチンシンクで手を洗う。  みずみずしさを得た手でエアコンをつけ、そのまま着替えもせずにどかりとソファに座った。  母に傘の有無を聞こうと、カバンからスマホを取り出し、緑色のアイコンを押す。  左下。トークの項目をタップしたところで。  ふと、一番上に表示されたニュースが目に入った。  声にならなかった息が、口から漏れた。  あまりにも唐突すぎる。  見ず知らずの人間から、胸にナイフを突き立てられたみたいに、衝撃が走る。  理不尽で、残虐で、信じられない。  スマホが軽い音を立てて、私の手からこぼれ落ちた。 『月詠帳、訃報』  画面上部には、小さな文字で淡々と、そう表示されていた。  ソファでうつ伏せになったスマホが、小刻みに振動し始める。  私は眼球すら動かせないまま、固まっていた。  半開きになった口からは、微かに空気のやり取りがあるだけだ。 脳が何もかも受けつけない。  視界の情報はなんの意味もなさず、聴こえる空調の音も曖昧だ。  せんせが、死んだ……?  数時間か数十分かけて、やっと頭に浮かんだのがそれだった。  玄関のドアが勢いよく開いたかと思うと、誰かが何か叫んだ。 「紗夜!」  リビングに現れたのは、頼子だった。  頼子は私を見つけると、ローテーブルを飛び越えて駆け寄ってきた。 「よかった……連絡しても出ないから心配したよ」  頼子は息を漏らしながら呟く。 「ひとまず、着替えよう? 私、飲み物持ってくから……あ、一人で行ける自分の部屋?」  今まで聞いたこともないほど甘くて優しい声の問いかけに。  何も言わず、小さく小さく頷いた。 「はい、とりあえずココアにしておいた」  私がベッドの隅に足を曲げていると。  部屋に、頼子がマグカップ一つ持ってやってきた。  マグカップを受け取る。カカオと牛乳のマイルドな香りが、湯気と一緒に私の鼻を塞いだ。  一口すすると、舌の先がつねられるような熱さの後、深い甘さがじんわり広がった。  何口かすすったところで、隣に腰を下ろしていた頼子が口を開いた。 「……さっき、ネットニュースでふ……あれを見て、連絡したんだけど。慌てて来ちゃった。今更だけど、押しかけてごめん」  頼子の顔を見ることなく、私は首を横に振る。濃い茶色の水面が、微かに揺れた。  頼子が入れてくれたココアのおかげで、少しだけど思考力が戻り始めてきた。 「せんせ、どうして急に……」  ちゃんと喋れるほど力は出ず、ほぼため息のような呟きになった。 「見て、ないの?」  頼子が上半身だけこちらに向き、私は「うん……」と頷く。 「月詠帳……先生、病気してたんだって。去年から闘病してたらしい。メディアにも流してなかったみたいだから、紗夜が知らなくても……」  言葉の尻が徐々に途切れ、私は言葉を口の端から落とすように言った。 「そう、だったんだ……」  頼子も私も何も言わない時間が、しばらく続いた。  ぽっかり空いた胸の虚空から、悔しさが波をなして湧き出てくるようだ。  その湧き出た悔しさが、行き場を探して、津波のように、私の中をめちゃくちゃに飲み込んでいく。 「私、なんでもっと早く思い出せなかったんだろ……なんで忘れちゃったんだろ……」  わずかに遅すぎた奇跡。もしあの時……という妄想が、脳裏を駆けていく。  顔の前に置いていたカップの水面に波紋が浮かんだ。  私は下唇を噛み締め、熱くなった目を力いっぱい瞑った。  頼子が一瞬、私の方を向きかけたが、やめたようだ。  代わりに、少しだけ、私の方に身を寄せてきた。  その肩に顔を預けると、彼女の温もりが直に伝わってくる。  意外と筋肉がついた肩。右目のあたりに広がる温もりに混じって、ほのかに紙の匂いがした。  窓の外で、とうとう雨が降りだす音がした。  同時に、部屋と私の頭蓋骨に、情けない声が響いた。  何も言わず、何もせず、頼子は私に肩を貸し続けた。
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