紗夜7

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紗夜7

 せんせはもういない。  その現実を受け入れようともがいているうちに、世界は冬になっていた。  下校中。落ち葉の絨毯の上を歩きながら、私はひとり、黒っぽいマフラーを巻き直す。上を見ると、ハゲ散らかした木々の間から、暗い鼠色の雲が満遍なく広がっていた。  頼子とは、あの日からあまり話せていない。頼子には部活があったり、私も誰かと遊んだりする気にはなれなかったから。家でも学校でもせいぜい、二、三言の会話みたいなやりとりがあるだけだ。  家の前に着くと、郵便受けから茶封筒がはみ出ていた。  私はかじかむ手でそれを引っこ抜く。  乾燥した指先に、外気にさらされた冷たい封筒が滑る。  宛名には、私の名前が記載されていた。 「これって……?」  裏側にすると、見覚えのある社名があった。  私はすぐに家のドアを開けて、手も洗わずに自室に入った。  本棚にしまってあった『落ちて生まれて』の裏に表記された出版社名をみる。  やっぱり、封筒のものと同じ社名だ。  震える手で封をこじ開けて、中身を床にぶちまける。  鼓動が速くなるのを感じながら、私は出てきた2枚の紙を拾い上げた。  ひとつはコンビニでもらうような紙のチケットケース。もうひとつは、一枚のメモだった。  メモには、花の刺繍がプリントされている。 『月詠先生の奢りだそうです。詳しくはネットを見てくれればわかります。  忘れていようがいまいが、来ることをお勧めします。                                 編集 野谷』  メモの内容を目で追ったあと、懐疑心まみれの手でチケットケースを開く。 『月詠帳 特別展』  そう刻印された紙切れに、私は思わず膝を床についていた。  静かな部屋に、私の鼓動と呼吸音だけが響いている。  今、自分の手の中にあるものが信じられない。  しばらく鼓動を落ち着かせるのに専念したあと、スマホで特別展について検索した。  薄暗い部屋で、スマホの明かりが眩しい。  たしかに展示は実在するようだった。しかも場所は、西荻窪のあの本屋。私がせんせの詩集と出会った、あの場所だ。  開催日時は今日から3日間だけど、もう本屋が閉まってるから実質2日間。つまり日曜日まで。 「行ける……」  行かなきゃ……。  夢に見たせんせの顔が曖昧に浮かぶ。  待ってるだけじゃダメだった、なら、会いに行こう。  床についていた膝を、力強く立ち上げた。  翌朝。私は朝ご飯を済ませた後、チケットとメモを持って家を出た。  曇り空の下、足取りはやや重い。  一歩進むたび、胸に水が溜まっていくように、根拠のない不安が込み上げてくる。  その度に、せんせの顔を思い出しては、強引に足を踏み出した。  駅の前までやってくる頃には、走ってきたみたいに息が上がっていた。  チケットが入った鞄を、汗だくの手でぎゅっと握りしめる。  もう一度前に踏み出そうとしたところで、足の震えが顕著になっているのに気づいた。 「あれ……」  力が、入りづらい。前に行かなきゃなのに、体は言うことを聞かない。  次第に焦りが湧き出てきて、鼓動を加速させていく。  なんで……私、行かなきゃなのに、せんせが、待ってるのに……!  足は前に出そうとしても、後ろに行きたがる。  腰が抜けそうなほど、全身の力が抜けていく。  怖い。  今、自分が感じている気持ちの名前を知ったとたん。  まるで心と体が別の生き物になったみたいに、私の体は全く動かなかった。  せんせがいないことは知ってる。でも心のどこかではまだ、信じられてない。  展示に行ったら、私の中で曖昧に燻るせんせの死が、現実味を帯びてしまうかもしれない。  それがたまらなく、怖いと思った。  とうとう、私の足がそれ以上、駅に進むことはなかった。  帰宅した私は、重い体を引きずって部屋に戻った。  鞄を床に落とし、ベッドの上の隅で膝を抱える。 「はぁぁぁぁ……」  目尻で熱いものが溜まり始め、服の腕に生温かい染みを作る。  行きたいけど、怖い。進みたいけど、止まっていたい。  自分の中で、相反する気持ち同士が派手にぶつかり合う。脳に響く心臓の音が、これほどウザいと思ったことはなかった。いっそこのまま、叫び死にたいと思った。 『忘れていようがいまいが、来ることをお勧めします』  メモに書かれていた言葉を思い出し、下唇の裏を噛みしめる。 「忘れてないし、わかってるよ、そんなの……」  感情の激流から逃れるように、スマホで時間を確認すると、本屋の閉館時間はとっくに過ぎていた。  持っていたスマホを枕元に放って、倒れ込む。  冬用の厚い掛け布団から、微かに獣の匂いがした。  さっきまで戦いあっていた気持ちは、嘘みたいに凪いでいた。  私は目を閉じて、祈るように息を吐いた。
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