紗夜8

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紗夜8

 翌日も、私の足は駅前から動くことはなかった。  かれこれ、二時間もここでじっとしている。  腕時計を見ると、午後3時になっていた。  閉館時間まで、あと一時間半。  もう行けない気すらしてきている自分が、情けない。  鞄のショルダーストラップを、痛いほど握りしめて立ち尽くす。  鼻先に冷たいものが落ちてきた。拭った手の甲が湿っていた。  それを皮切りに、そこらじゅうで雨音が響き始める。  雨が髪を濡らしていく中、ふと、いじめられた時のことを思い出した。  きっかけなんて覚えてないけど、雨の日に教科書が外に放り出されたな。  みんなが下校する横で、私だけずぶ濡れの教科書を摘み上げてたっけ。  でも、あの時はたしか……。 「何してんのさ、こんなところで?」  聞き覚えのある女の声が、背後でそう言った。  頭上で雨が遮られ、パラパラと乾いた音に変わる。 「よりこ……?」 「側から見たら完全に不審者だぞ、紗夜」  デジャブを感じる彼女の言葉に、私は目と口を少し開いた。  駅前のカフェに入った私たちは、ボックス席に案内された後も、黙ったままだった。  二つのお冷や越しに「なんか、最初に話した時みたい」と頼子が笑う。  教科書を拾っていたあの日、頼子は私に傘を差し出してくれた。  そして今みたいに、一緒にカフェでお茶をした。 「ねぇ。なんで、あの時助けてくれたの?」  私の問いかけに、頼子は少しキョトンとして答えた。 「私のことを可愛いって言ってくれたから、って覚えてないの?」  一瞬理解ができず固まる。 「……うん、ごめん」  俯くと、頼子は呆れたように息を吐いた。 「まったく……紗夜が転校初日くらいの時にさ、私たち帰りが偶然一緒になって、その時」  聞いたものの、全く思い出せない。 「あ、あぁ〜……そう、なんだ?」 「聞いても思い出せないんかい……私の幻聴だったのあれ?」 「いやそんなことはないと思うよたぶん!? 実際、今でも可愛いと思ってるし……」 「あっそ」  飾り気のないあっさりした応答に、心臓が何かで小突かれたような気がした。 「でー? 何してたの紗夜さん」 「それは……」  誤魔化すことも考えたけど、やめた。  私は昨日から悶々と足をすくませている自分のことを、洗いざらい全て吐き出した。  こうすることで、救われたいのかもしれない。  いつも吐口のように頼子を頼っている自分に、さらに悔しさが込み上げた。  話し終えた後、注文したコーヒーが届いた後も、頼子は黙り続けた。  私は正面を見ることができず、ずっと俯いている。  窓の外に視線を移そうとしたその時、頼子が動き出した。  湯気が立つティーカップを掴み上げ、頼子は中身を一気に煽った。  直後。 「にっガァ……!」と目をカッ開いて声を絞り出す。  カップが勢いよく机に置かれ、思わず私は跳ねた。 「この……バカ紗夜っ!!」  頼子の、聞いたこともないような怒鳴り声が席に反響する。 「今行かないでどーすんのさ!? そんな曖昧なままじゃ誰も報われないんだよ! あんたも、月詠帳も、あんたに関わってるやつみんなみんなみんな!」  いつも掴み所のない笑みを浮かべる彼女の顔は。 「いけ、行ってこい! 今すぐそこ立ってカバン持って……行ってこい!」  真剣に怒っていた。 「わ、わわかった!」  私は気圧されるままカバンを持って立ち上がる。 「あっ、より……」  通路に出たところで振り向こうとしたその時、牽制するように頼子が言った。 「可愛いって、言ってくれてありがとう。嬉しかったよ」  その声は、しっとりとした笑みを含んで震えていた。 「でも私からしたら、紗夜の方が百倍可愛かった!」 「……ありがとう!」  私は振り向かずにそう残して、走り出した。  最寄駅から西荻窪まで電車で一時間。歩く時間も含めると、走ってもぎりぎりなくらいだ。  スマホで時刻表を確認しながら、息を整える。  頼子がくれた言葉が、胸の中で燃え上がるように響いている。その言葉に、振り向くなと、背中を押された気がした。  私は胸に拳をつくって、車窓の向こうを見た。  降り注いでいた雨は、いつの間にか止んでいた。  西荻窪駅を早足で出た後、心臓が破れる覚悟で夕暮れの道を駆け抜けた。  時計を確認するのも煩わしく、空を見上げる。  降り始めた帳と遠くの夕陽が、対照的な二色のコントラストを描いている。  青黒い帳の中に、丸い月が白く浮かんでいた。  前へ向き直し、かじかむ口元と手を動かして、がむしゃらに前へ進んだ。  本屋に着くなり、私は正面から倒れ込んだ。  肺が痛くて、思うように、息ができない。  床についた四肢が、爆発しそうなほど痛い。  誰かが慌てた足取りで駆け寄ってきた。 「大丈夫ですか?」  ハスキーな逞しい声が降り、顔を上げる。  そこには。 「さ……」  限界まで引き伸ばされた、猫の顔があった。 「幸子……さ、ん」  名前を呼ぶと、彼女は前回会ったときのような優しい声で言った。 「お久しぶりです、紡木さん。ポカエリアス、いりますか?」 「い、いります……」
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