紗夜9

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紗夜9

 がむしゃらに走った後のポカエリアスは、楽園の湧水のように濃く甘かった。 「野谷さんを呼んできますから、休んでてください」  幸子はそう言い残すと、店の奥にある階段を上がっていった。  店内に客は誰もおらず、もうすぐ閉業する雰囲気で満たされている。  奥のレジで、幸子の旦那さんと思わしき男性が座っているだけだ。  紙コップを捨てようと立ち上がった時、私は再び硬直した。  装丁は朝焼けを表していた。  パステルカラーに染まる空の向こうで、朝日がぽつんといる。  鮮やかさはなく、特別変わった表紙でもないのに、私の心は惹かれていた。  『ナンプの夜』、月詠帳。  けどもう、心惹かれる理由はわかってる。  私は詩集を手に取り、レジへ向かった。 「初めまして。やっときましたねぇ、紡木さん」  野谷さんは、組んでいた腕を解いてホッとしたように笑った。  目の前の丸い顔の女性に、この人があのメモの人かと、心の中で驚く。 「遅くなって、すみません……」 「いえいえ、大丈夫です。むしろ他にお客さんがいないので助かりました」  冗談めかして言う野谷さんに「はぁ」とこぼす。 「あ、チケット! ありがとうございました」  鞄からケースを取り出すが、野谷さんは「大丈夫ですよ」と手を突き出して受け取らなかった。 「お礼なら今度、先生に言ってあげてください。これ考えたの、全部彼女ですから」  改めて周りを見渡す。  モダン家具が散りばめられた和室には、深い青のパネルがいくつも並べられている。天井からは、星を模した小さなパネルたちが吊るされている。  どちらにも、せんせの詩が書かれていた。 「こっちです」  野谷さんが案内してくれたのは、部屋の一番奥。床がフローリングになっている一角だ。  テーブルの上に、額縁が写真立てのように飾ってある。 明かりで反射して、中はよく見えない。 「これは……?」 「月詠先生があなたのファンレターを読んで、最後に詠んだ句です」  振り向くと、野谷さんは私を見ながら、手で額縁の方を指した。  唾を飲んで、前に踏み出る。  額縁には、一枚のメモが入っていた。野谷さんが書いてくれたメモと同じ、花の刺繍が入ったものだ。  そこに、4行の言葉がある。  そのたった4行の詩を、目で噛み締める。  買った詩集を抱く腕に力が入る。  鼻の奥がツンと痛み出し、目元が痙攣する。瞬きをしながら、何度も4行間を往復する。  大切に、胸に刻みこむ。  しばらくして、嗚咽が聞こえた。同時に私の目から、熱いものがにじみ出た。  とめどなく溢れる涙で世界が揺れる。  けれど私は、涙を流しながら、満面の笑みを作ってみせた。    
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