紗夜

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紗夜

 本は嫌いじゃないタチだ。でも進んで読むほどではない。だから今日だって、貴重な高二の夏休みを使って、西荻窪まで来るはずじゃなかったのに。  1年後にはオリンピックでさぞかし賑わうだろう、2019年の8月。  都内はアスファルトの反射熱で、腹立たしさも消し炭になるほど暑かった。  ポニーテールの後頭部は蒸れて暑いし、受験勉強はできないし……暑いし。 「あぁ今……私の中の語彙が死んでった……」  私がそうこぼすと、前を歩く灰色のショートヘアの女が笑った。 灰色の髪がかけられた右耳には、小さな赤い本のアクセがぶら下がっている。 「日頃から体力つけたら? 紗夜」  と私の名前を呼んだ頼子は、相変わらず綺麗な顔をいじわるくニヤつかせる。 「いや、頼子がバケモンすぎるって……この暑さでなんでそんなピンピンしてんの?」  私が重ねて問うと、頼子は人差し指をピンと立てた。 「ひとえに、本のため!」 「あっそ」 「ちょいちょい、紗夜ちゃん、聞いておいてそのリアクション?」 「だって聞き飽きたんだもん」  頼子は私の唯一の親友であると同時に、その派手な見た目からは想像を絶するほどの読書家だった。安易に正体を晒すとドン引かれるからと、頼子が本の虫なのは学校では私しか知らない。おかげで本屋巡りには毎回付き合わされている。今日だってこんなザマだ。  まあ、可愛いから良いけど……。  頼子の切長な目が私に向いた。 「ふざけずに答えるなら髪の長さ、かな? ほら、長いと邪魔だし」  頼子に指摘され、私は自分の長い焦茶髪を触った。  軽く絞れそうなほど汗を吸っており、気持ち悪い。ポニーテールに結んでも肩に当たるくらいの長さに、だいぶ伸びたな……と鬱陶しさを感じた。 「あとは弟たちで鍛えられてるし、私」 「ああそっか、下の子まだ幼稚園児だっけ」  頼子は「ホントやんちゃ坊主よ……」と、眉間を寄せて口を尖らせた。  そんな苦労を背負っているからか、彼女の評価は昔から優男のようなものばかりだ。  彼女を褒める言葉は、圧倒的にカッコいいが多い。というかカッコいいしか言われてない。私を除いて。 「なんにせよ、もうすぐ着くから、それまでの辛抱だ!」 「えぇぇ……ん? あれかな、本屋。というかあれであって」  私が指差した先、細い道路を挟んだ向かいに、レンガに埋め込まれたドアと、青い窓枠が見えた。 「うん、あれだ!」  頼子の声は、かつてないほど高揚していた。  そこは、小さな個人書店だった。ドールハウスのような可愛さ漂う店内には、山のように本が収まっており、その密度にため息が出る。  店内の奥では、店主らしき中年の女性が、ノートパソコンに何か打ち込んでいた。  これまで付き合わされてきたのが古書堂ばかりだった分、こういうイマドキな書店の新鮮さは大きい。 「私は休んでるか、ら……」  自由に見てきて、と続きを言うまでもなく。 頼子は目を輝かせて、舐め回すように本棚に食いついていた。  私は呆れて笑みをこぼしつつ、入り口脇にあった木製の椅子に腰を下ろした。  頼子に出会ったのは、中学に上がった少しあと。まだ梅雨にもなっていないのに、やたらと雨がひどい日だった。転校生だった私はひどくいじめられていた。ストレスのあまり当時のことは、いや当時以前のことも少し、忘れているけど。全校集会をジャックして抗議を通させた彼女の姿は、今でも覚えている。  今みたく勝手なところもあるし、本のことになるとキモいけど……恩人で、親友だし、そう言うところもひっくるめて好きだと思っている。顔も良いし。  窓から通りを眺め、懐古に耽っていると、声が降ってきた。 「あの、これ、タオルとポカエリアスです。よければどうぞ」 「あ、どうも……ありがとうございます」  タオルとコップを持ってきてくれたのは、先ほど店の奥で作業していた中年の女性だった。  顔の彫りが深い……そしてなんか、ゴツい。  この店の店主と思わしき彼女は、その優しい目つきとは裏腹な、実にたくましい筋肉を持っていた。  エプロンに描かれた猫が引き伸ばされて、かわいそうな感じになっちゃってる。 「……やはり、本屋の妻には、見えないですかね?」 「へ? あ、すみません! そう言うつもりじゃ……」  私は慌てて視線を本棚に向ける。  ついガン見しちゃった……。 「妻、って旦那さんと経営されてるんですか?」 「ええ、旦那と二人で」  少し戸惑いを見せながらも、店主はそう答えた。 「素敵ですね、なんだか物語みたい」 「ありがとうございます」  コップに入ったポカエリアスを、一気に飲み干す。  うすら甘い液体が、あっさりと私の中を潤いで満たした。 「夫とは、前の職場の病院であったんです。体を壊しやすい人で……って、ごめんなさい、こんなはなし」  恥ずかしそうに目を逸らした店主に、私は首を振る。  強そうな見た目だけど、意外と可愛い……。 「いいえ、大丈夫ですよ! あ、これありがとうございました」  タオルとコップを渡すと、店主はとても優しい笑みをこぼした。 「すみませーん!」と、本棚の影から、頼子の嬉しそうな顔がぬるりと出てきた。 「では、どうぞごゆっくり」  店主さんはそういうと、軽くお辞儀をして店の奥に入っていった。  その歩いていく後ろ姿に、私はなぜかデジャヴを覚えた。  ──私にも、誰か大切な人がいた気がする。  一瞬、そう思った自分に身震いした。高二になって厨二か、と。  ……いやまあ、でも。あり得なくはないはなしだけど。  私の記憶、特に12歳の頃のものは、ほとんど欠落している。  唯一覚えているのは、骨折して地元でも有名な怪談病院に入院したことぐらい。 「小六の頃に出会っていれば、かぁ……」  まったく、ピンポイントすぎて笑える。 「ありがとうございました」と、奥から店主の声が聞こえた。  頼子の買い物が終わったらしい。  頼子を迎えに行こうと、立ち上がった、その時。  私は、背後に雷でも落とされたみたいに、硬直した。  目の前の棚に置かれていた、一冊の本を見たまま。  思わずその本を手に取る。  紙の丈夫な手触りが指先を駆け、私の世界は、一人の有機物と一つの無機物だけになった。  手元の本以外の視界情報が処理され、白く霞んでいく。  装丁は夜空を表していた。  青と茜色のグラデーションに、白い絵の具が飛沫のように瞬いている。  水彩画の柔らかく深い濃淡が、その飛沫のような星々の背後に広がっている。  目を見張るほど美しいわけじゃない。知っている本でもない。  じゃあ──。  じゃあなんで私は、ここまで心惹かれてるの?  知りたい、たしかめたい……この先をめくれば、答えはある?  経験したことのない胸の高鳴りに耐えられず、胸を押さえた。 鼓動の音色が、いつもより2オクターブくらい上がっているみたいだ。  激しい鼓動と気持ちの渦潮に飲み込まれる最中、はたと気づく。  『落ちて生まれて』、月詠帳。  その読んでもいない、されど、とても魅力的な一冊に。  私の心は、待ち侘びていたように、あっさりと恋に落ちたのだ。
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