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ハル
その病室は、ただ終わりを待つだけの静かな空間だった。
壁一面の無機質な白が、私の弱りきった心を圧迫してくる。逃れるように窓を見やると、木に止まっている蝉と目があった。茶色く薄い羽を擦り合わせている音が、窓ガラス越しにも聞こえてくる。。
その生き生きと、死に向かって喚き散らしている[[rb:様 > ざま]]に嫌気がさす。
ぼーっとしていると、窓ガラスにうっすらと映った自分にピントがあった。
前より痩せた自分の頬に、しばらく洗っていない黒髪がへばりついている。縁の太いメガネの奥にある黒い瞳は、ドブのように濁りきっていた。
9月の、枯れかけて色が抜けた紫陽花みたいだ。
私は胸の内に澱む絶望と無気力をよそに、原稿用紙とペンを机に広げた。
教授からあんなことを言われたあとでも、詩を詠むことはやめられない。不思議と、詠まずにはいられないのだ。
今まさに病魔に侵食されているという肺へ、目一杯、空気を送る。
紙にペン先がふれたか、触れないか。
というところで、やかましい声がした。
「せーんーせっ! ハルせんせ!」
病室のドアを開けて我が物顔で入ってきた少女は、私に向日葵のような笑みを向けた。そのベリーショートの焦げ茶の髪が、彼女のハツラツとしたオーラを強調している。
「勉強、教えて!」
「ツムギぃ……」と思わずこぼしてしまうのは、自分で言うのもなんだが無理ない話だ。
ツムギ、そう呼ばれた少女は、松葉杖の割に素早く私の元にやってきた。
「なあにせんせ? また詩書いてたの?」
「そう、今まさに書くところだった」
邪魔された気持ちをあえて言葉に込める。
入院して間も無くから、私はこのツムギに絡まれ続けているのだ。
勉強を教えて、とやって来ては。
「どんなの書いたの? 見して見して!」
こんなふうにふざける。
最初は勉強を教えようと頑張ったが、その破天荒さに匙はへし折られた挙句、ぶん投げられたのだ。
「いいけど、ちょっと待て」
再び原稿用紙に向き合うと、私の顔にツムギの純粋な視線が注がれる。
「……集中できないんですけど?」
「せんせが詩書いてる時の顔、好き」
「私を口説こうなんて100年早いわっ!」
こんな会話、看護師に聞かれたらまずい……。誤魔化しがてら声を荒げて否定する。
『19歳の女子大生、入院中の11歳少女に手を出す』
なんて、ネットニュースデヴューは御免だ。ニュースにするのは詩の方だけで良い。
数分後。完成した詩を見たツムギは、声高らかに言った。
「むずい! なんかカチコチで読みづらい!」
まぁこうなることは予想していた。
机に戻された原稿用紙を手に取り、くしゃくしゃに丸める。
「そうだね、私の詩なんて猿真似で中身がないクソみたいな駄文だ」
「そこまで言ってないし!」と、ツムギの頬がぷっくり膨れる。
私は人差し指でその頬を押した。もちっとした温かみが指先に迸る。
『猿真似で中身がないクソみたいな駄文』
これは、私が入院する直前に教授から言われたものだ。もっと詳しく言えば末尾に「言葉に謝れ、でなければ、くたばれ」とついていたが……。
もし、教授に言われた通り私が死んだら、私の作品たちは日の目を見られるだろうか。
そうなってくれるのなら、いっそ……。
「死んでしまいたい……」
子供の前で情けないし教育的にも良くない、とは思ったが、口をついて出てしまったものは戻せない。
「なんでそんなにナイーブなのさ?」とツムギに聞かれ、私は目を逸らした。
「知らん……」
そんなこと言われた上に大病を患ったら、誰だって落ち込むだろう。
死への道をあつらえたみたいじゃないか。頼んでもいないのに……。
黙っていると、ツムギがパチンと手を叩いた。
「ま、ナイーブなのはどうでもいくて、落ち込んでるせんせに朗報です」
「は?」
どうでもいいのか? じゃあなんで聞いた!?
「今夜は私が一緒に過ごしてあげる! こんな美少女と一晩明かせるんだから、まだ死なないでよ?」
「美少女って、自分で言うか……?」
しかもまた誤解を招くようなことを……。
「じゃ今夜は空けといてね〜!」
ツムギはそう言い残すと、途轍もない速度で松葉杖をついて出ていった。
「私に何をするつもりなの、あの子……」
静けさが戻った病室に、私のぼやきが取り残されるように響いた。
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