紗夜2

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紗夜2

「買っちゃった……」が、店を出て開口一番に出た言葉だ。  あのあと、私はなんの躊躇いもなく手に持った本を買っていた。  横並びに歩く頼子が、目を輝かせて言う。 「驚いた、紗夜もとうとうこちら側に……!」 「いや行ってないから!」 「まあまあ、で、どんなの買ったの?」 「……よく、わからない」 「なるほど、表紙買いね。私もあるある! 予定外に3冊とか……そう言うのが積み重なって本棚が爆発したりとか……」 「へえ……」  表紙買い、客観的に見ればそうかもしれないけど……こう、私は何か運命的なものを感じたのに。  ちょっと不機嫌な私の心を察したのか、頼子が振り向く。そして「やれやれ」と言うように笑みをこぼした。 「早く行こうか、そろそろアレが欲しい頃合いだろう?」  頼子の本屋巡りは、本を買うだけじゃ終わらない。その近くの喫茶店で、買ったばかりの本を読むのが彼女流の楽しみ方、らしい。  私たちは西荻窪を離れ、隣駅の荻窪にある喫茶店を訪れた。  紫煙が香り、フランス歌謡が響くレトロモダンな店内に、客は私たちだけだった。  ポツポツと、低い天井から吊るされたランプが怪しく灯っている。黒っぽく変色した煉瓦の壁には、時計や絵画、鏡までもがびっしりかけられている。  外の喧騒が、遠い別世界の物のように思えてしまう、まさに異空間じみた場所だ。  店内に漂う濃厚な雰囲気には、遠い昔に似たような場所で過ごしていたような懐かしさを感じる。  私たちは壁際の座席に腰を下ろした。頭の近くで、見たことないような古めかしいエアコンが唸っている。  毎回思うけど頼子のやつ、センスが良い……たぶん、私がこういうの好きだってわかって選んでるな? 「どう? 気に入った?」  そう思っていたところに、頼子がドヤ顔で聞いてきた。私はあえて正直に答える。 「気に入った。さすがは頼子さん」 「でしょ〜? 紗夜のことは、なんでも把握済みですからねぇ」 「言いかた!」 「ふふふっ……」  頼子にからかわれ、私はやけくそになってクリームソーダを飲んだ。  甘くてほのかに酸っぱい痛みが口腔を刺激する。  程なくして、私たちは本を開いた。水中へダイブしたみたいに、話すことなく互いに本と向き合う。 『星で満たされた空が 私の墓場なら  どれだけ良いだろう どれだけ安心するだろう  そう伸ばした手はボロボロで 何も掴みとれない  ふたしかでまっすぐな君の言葉が 私を救い上げる  わからないけど、すき  星空の墓場より 君のいるここで生きよう  たったのひとことだけど そう思うには十分だ』  さっき買った本を開いてわかったことがある。  この『落ちて生まれて』は、詩集だった。  はっきり言って全然理解できない。と、最初のページを見て思った。初めて詩に触れる私には、何を表しているのか、察することはできない。  でも不思議と、ページをめくる手が止まることはなかった。  わからない。でも、確かに伝わってくるものがある。  感情だけ、あるいはイメージだけが私の中に入り込んでくる。  とめどなく、されど小雨のように優しく。  どれもこれも、私のものではないし、覚えがない。  しかしそれは、寄り添うように、私の心に馴染むものだった。 「紗夜!」  頼子の呼ぶ声で、私はハッと意識を取り戻した。 「い、今、わたし……」  言葉に、溺れてた……?  私がたったいま陥っていた感覚は、そう形容するのが一番近い気がした。  手元に広げた詩集は、まだ半分も読めていない。  顔を上げると、「そんなに面白かった?」と、頼子が眉を八の字にして言う。 「え、うん? なんだったんだろ……」  そこで自分の口角が上がっているのに気づいた。  あれ、わたし笑って……? 「まあ良いことだけど、時間」  頼子の手首をさす仕草に、私は腕時計を見下ろす。 「……私たちここ来たの、何時だったけ?」 「3時だぜ」  一方で腕の時針は、実に4時間分の間隔を空けている。 「まじか……」  驚きのあまり固まる私をよそに、秒針だけが、チックタックとじれったそうに進んでいた。  なんとか家に帰れたのは、8時過ぎだった。  集中して読んでいたからか、首から肩にかけてひどく痛む。  食事とシャワーを済ませる間、私の心は秘密基地を見つけた時のようにソワソワと落ち着かなかった。  あとは寝るだけと言う状態になった私は、仰向けにベッドに寝転がって詩集を抱きしめた。  自分の心音が詩集越しに伝わってくる。紙の無機質で穏やかな匂いが鼻先で少し香った。  先ほどから感じているソワソワが、少し和らいだ気がする。  それにしても今日の、あの感覚はなんだったんだろう?  喫茶店で感じた、言葉に溺れるようなアレを思い起こす。  読んだこともないのに、妙に惹かれるし。読んでもわからなかったのに、感動したし。 「つくよみ、とばり……」  著者の名前を、声に乗せてみる。  私と同じ、夜にまつわる名前。  なんとなく口角が上がってしまい、詩集で顔を隠した。  この本は、一体なんなんだろう。  月詠帳、先生……? この人が紡ぐ言葉に、私はなんでこんなに惹かれるんだろう。 「さっきの続きを読めば、わかるかな……」  私は深呼吸して、再び、深海まで潜り込むようにページを開いた。
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