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「ごめんなさい、遅れて」
私は神田にある割烹料理屋の個室でコートを脱ぐと、若い配膳係の女の子に手渡した。
待ち合わせよりも40分近く遅れて入ってきた私の顔を、その女の子はまじまじと見ると、お預かりいたしますと言って部屋を出て行った。
「忙しそうだね」
「年末調整の資料が全然揃わなくて。信じられないくらい時間がないの」
月日というのは怖いものだ。
2人で食事をしただけで片手に収まらない金額の店に行くことは、もはや私たちの日常だった。
学校帰りにファミレスに行くのと、別に変わらない。
人間の慣れというのは、どこまでも恐ろしく、欲深いものだった。
彼は先に飲んでいた日本酒の徳利を持つと、私のお猪口に注いだ。
「最初はビールがいい?」
「ううん、お酒で平気。ねぇそれより書評見た?」
「新聞の?ああ、見たよ。朝に」
「あれは何なの?なんであんなのが許されるの?」
彼はベストセラー作家という部類の中でかなり若い作家なのもあって、大御所の先生達が彼の書評を出すとそれはそれは酷い感想も多かった。
ただ年が若いという理由で、文章が幼稚だと揶揄されたり、もはや"批評"というレベルの書評を新聞や本で出されたりすると、彼よりも私の方が腹が立って彼に伝えたものだった。
「僕のために怒ってるのなら辞めな。時間の無駄だよ」
「だって酷い書評なの。良さが何一つわからないって書かれてるのよ?」
「いつも言ってるだろ?他人の意見に興味がないんだ」
「だとしても、新聞なんて多くの人が手に取るものに批評を載せる必要がある?」
「僕の作品を気に入らない人なんて沢山いるよ。珍しいことじゃない。それにこれだけ嫌いな人がいるって事は、好きな人も同じようにいるんだ。それでいいんだよ」
「だからって、名前のある作家が批判混じりに偉そうな文章で書いてるのは本当に嫌」
「それだけ宣伝してくれてるって思えばいいさ」
彼はもう一度、私のお猪口に熱燗を注ぐと
「それよりイタリアで翻訳されたタイトルの方を怒ってくれよ」と笑った。
「何で?また変なの付けられたの?」
「もう言うのも嫌なくらい幼稚なタイトルを付けられた。元に戻せって書いた本人が言ってるのに、全然聞こうとしないんだ」
「それで?向こうの編集者にも直して貰うように伝えたんでしょ?」
「伝えたよ。だけど凄い剣幕でこっちの方がいいって突っかかってくるからさ。もうめんどくさくなって、わかったもういい。好きにしてくれって電話を切った」
彼の小説は発売される度に30か国以上の地域で翻訳され、その内の半数の国で一位を獲るほど著名なものになっていた。
彼の名前はもう国内だけのものじゃなく、世界のものだった。
「そんな直ぐに諦めないでしつこく言えばいいのに」
「諦めるのは時に大切なことだよ。自分の感情を乱されなくて済む。だから君も怒るのはやめな。その書評を書いたやつがどれだけ僕を批判しても、僕を求めてる人が世界にいるんだ。君もそっちに目を向けるべきだろ?」
「私は馬鹿な人たちにあなたが叩かれてるのが嫌だって言ってるの」
「そうだね。そいつが馬鹿なのは同感だけど、僕が気にしてない以上君ももう読むのはやめな」
彼は徳利に入った最後の日本酒を注ぎ終えると、テーブルの端に置いた。
「お食事中ですのにすみません」
襖を開いたと同時に聞こえたその言葉に、私は自分の左手をパッと机の下に隠した。
目をやればそこにいたのは私がコートを預けた彼女で、ほらやっぱり。と私は思った。
彼女の好奇に満ちた目を見たときから、そんな予感がしていた。
「先生の作品を拝見していて、どうしてもサインをいただきたいのですが、よろしいでしょうか.....?」
「ええ。構いませんよ」
彼はいつも通り手渡された本にペンを走らせると、彼女の名前を聞いてサインの上に添えた。
「ありがとうございます。入っていらっしゃった時から気付いていて...」
「そう。それはどうも」
「快くサインを頂けるなんて...良い方ですね。奥さまもとてもお綺麗ですし」
「ありがとう」
彼はサインをした本を閉じて「僕がお礼を言うのは変かもな」と少し笑いながら彼女に手渡した。
「いえ、そう仰るのは当然です。私もコートをお預かりした時に見惚れてしまいました。あまりにお綺麗で」
「そんなに妻を褒めてくれてありがとう。僕の自慢なんです」
彼はいつも通り特に気にもしてない様子で淡々と返し、私は嫌だなぁと思いながらも、私はその会話が終わるのをただ待つ姿勢で、なるべく口角を上げていた。
こんな高級な店で男と女が二人でいる中、彼が有名人だからサインをくれなんて、とんでもないマナー違反だ。
この店は政治家が愛人を連れてきても、あなたの政策が気に入ってますとか言うんだろうか。女将さんが知ったらこの子はクビになるだろう。
神田の老舗割烹がこれじゃあどうしようもないなと、そんな呆れた私の醸し出すオーラにも彼女は全く気づかない様子で
「ご主人がこんなに才能がおありになると誇らしいですね」
と私にまで話しかけてきた。
きっと悪気なんて何もない。
ただ話をしたいだけだというのはわかってる。
だけど私たちの間に赤の他人が割り込んでくるのはどんな時でも好きじゃなかったし、早くいなくなってほしかった。
「そうですね。いつも誇りに思ってます」
そう微笑むと納得したのか「お邪魔してすみませんでした。ごゆっくりなさってください」と部屋から出て行った。
「君も随分慣れたものだね」
「そうね。でも、あなたの奥さんのフリをする事に慣れるなんて全然嬉しくない」
「実際に妻になったってフリでするのと変わらないよ。しかも君が普段してる事の方がよっぽど妻らしい」
「こうやって批評をあなたに読み聞かせてるところとか?」
「まぁそれもそうだけど、一緒にいる時間が圧倒的に長いだろ。君の方が。僕の周りはもう君のことを妻だと思ってるし、籍を入れようが何も変わらないよ」
「ならお揃いの指輪だけしてれば、全て丸く収まるのね」
「買ってあげようか?」
「やめてよ、そんな見せかけのものいらない」
「見せかけじゃない。僕の愛もあげてるだろ?」
「んー。まぁ、そうだけど」
「君は愛より指輪が欲しいの?」
愛か指輪か。
その2択なら間違いなく前者を選ぶけれど、愛のある指輪というものは、彼の頭にはないのだろうか。
そのゴールドの指輪を私の好きなブランドの指輪にはめ替えて、リング裏に私達が出逢った日でも刻むような未来を想像しないのだろうか。
まぁ指輪をしてたって何の気にもせず不倫をこれだけ長く続けている男に、そんな純粋な気持ちはもう持ち合わせていないんだろうなと、熱燗を啜った。
「どうする?あと2合貰う?」
「ううん。焼酎に変えて。明日も仕事だから残したくないの」
「そう、わかった」
奥さんと変わらないと言うけれど、私はあくまでも"見せかけの奥さん"を演じているだけで、それは本当の私じゃない。
役になりきった偽物だ。
私はいつも彼に連れて行かれた舞台の上で、彼の知り合いという観客相手に演技をする。
こんな人だったら彼に相応しいだろうな。
こんな言い方をすれば、彼が自慢に思うだろうな。
見たことも、会ったこともない彼の奥さんを想像と理想で作り上げ、私はその殻を被って動く。
何度も繰り返し奥さん役に抜擢される私は、何の違和感もなく、私が作り上げた"彼の奥さん"という役を、いつでもどんな時でも上手に演じる事が出来る。
舞台袖に捌ければただの愛人だけれど、私を精神的に支えているのはスタンディングオベーションをする観客だ。
「素晴らしい奥様ですね」
「気品も教養もあって、大手の出版社にお勤めなんですか?」
「ご主人が自慢に思うのも当たり前ですね」
そんな絶賛の声を浴びながら舞台袖を振り向けば、満足そうに拍手をする旦那役をした彼の手が目に入る。
手を叩く薬指に嵌った、あの金属。
私の手には嵌っていない、金色の輪っか。
あれがすぐさま私を、おままごとの世界から引き摺り出す。
私は笑顔を作りながらも、奥さんでいられた余韻を一瞬にして覚まされた事にため息が出て、ゆっくりと舞台から降りる。
奥さん役をやるのなんて、正直もう嫌気がさしていた。
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