文学少女

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夢だった編集者という仕事は何よりも楽しくて、紙の乾いた香りと、印刷物のインクの香りが充満する編集部で働く毎日は、何よりも充実していた。 編集部には乱雑に本が積み重なって、とてもお洒落なオフィスライフとは程遠かったし、新入社員の私は上司に頼まれた地味な仕事だけこなしていく毎日だったけれど、それでも仕事が生き甲斐だった。 5月の半ばのある日__ 編集部でいつも通り雑用をしていると 「随分、可愛い顔したのが入ってきたな」 と、営業部の社員証を掲げた男性に声をかけられた。 私の返事も待たずに隣に座っていた女性編集者が 「あなたね、今の時代にセクハラよ?それ?」 とぴしゃりと言い放ち、私が気まずい顔をすると その男性は「それじゃあ、なんも話せないじゃないですか」と、気にもしない様子で笑い「人手が足りないんだ。来週手伝ってくれる?」と言った。 「はい、何をですか?」 「贈呈式だよ。正装してこいよ?」 男性は笑顔のあと背中を向け、手をひらひらとさせながら編集部を出て行った。 正装といきなり言われても周りがまだ結婚するような年齢でもなかったし、華やかなドレスなんて持ち合わせてなくて、とりあえず実家にいるお姉ちゃんに電話をするとその足で実家に戻り、姉が一着だけ持っていたベージュのワンピースドレスを持って部屋を出た。 贈呈式とは所謂(いわゆる)表彰式みたいなもので、今年の本屋大賞に選ばれた作家や、新人賞、他にも様々な文学賞にノミネートされた作家たちが一同に集まり、東京會舘というホテルの大広間で行われるものだった。 私はいわば雑用係で、受付や表彰時の準備などの人員として招かれていた。 主催者や受賞者のみならず、出版関係者、マスコミ、歴代の受賞者など、ゆうに500人を超える人たちが結婚式に参列するような華やかな格好でホテルに集い、男性はタキシードのような正装をしていたし、女性たちもみんなが着飾って、それは私が見る初めての華やかな世界だった。 作家の顔というのは殆ど公開されないので誰が誰か全くわからなかったけれど、受賞した人は名前を呼ばれ登壇するので、その人だけは顔と名前を一致させることが出来た。 あの場に介していた作家たちは誰もが著名な作家たちで、文学少女だった私にとって、きっと好きなアイドルに会うってこんな感じなんだろうなぁと思うほど胸が高鳴って落ち着かなかった。 そして贈呈式も終わり、立食パーティーに進行が移ったとき。 入り口の近くに立っていた私の横を背の高い男性が通り過ぎた。 彼は黒のジャケットに、嫌味のない刺繍の付いたシャツを着て、そのまま颯爽と会場の中へと入っていった。 この時、一瞬だったけれど、まるで彼の周りだけ空気が変わったような特別なオーラを感じたこと。 そして彼からタバコの煙の香りがしたことも、私はハッキリと覚えてる。 これが私と彼が初めて出逢った瞬間だった。 
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