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「おい、挨拶回りするぞ」
何となく彼が気になって少しぼーっとしていた私は急いで名刺入れを取り出すと、営業担当の後ろをついて行った。
一通り連れられて流れるように名刺を配り、これじゃあ向こうもこっちも誰が誰だかわからないなぁ。と思いながら山のような名刺の束を名刺入れに押し込んだ。
締まりそうにないそれを後で整理しなければと思っていた時
「あれ?先生いらしてたんですか?」と営業担当が歩みを止めた。
私がふと視線を上げれば、そこに立っていたのはさっきすれ違った彼だった。
あの時は一瞬しか感じなかったけれど、間近で見た彼には迂闊に踏み込ませない風格のような雰囲気があって、名前を聞かずとも有名な作家なのはわかった。
「さっき着いたばかりで」
「呼ばれても登壇なされなかったので、いらっしゃらないのかと」
「賞をいただけた事は知ってましたので。わざわざ壇上で話すこともありませんし」と彼は少し微笑んだあと「彼女は?」と私に目配せをした。
「ああ、春からうちの編集部に入った新入社員です。挨拶回りをさせてまして」
「初めまして、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
挨拶をしたものの、この人は誰なんだろうと、あとで聞かなければと思いながら会釈をした。
「それにしても今回のも凄いですね。賞を取るのも当たり前でしたね」
「いや、少しテイストを変えたので、気に入られるか心配でしたよ」
「先生...こんなことをお願いすべきじゃないのですが、実は妻がファンでして...不躾ながら宜しいですか?」
そう言うと営業担当は一冊の本と、細い油性ペンを手渡した。
「ええ、構いませんよ」
彼はそれを受け取り、フタを口に挟むとすらすらとペンを走らせ
「奥さまによろしくお伝えください」と、担当の手元へと本を戻した。
その表紙を見て、私は驚いた。
この本は私が今、1番好きだと大声で言いたいほど、のめり込んでいた本だった。
彼の作品は発売される度に何かと話題になるので、本屋に足しげく通う私が彼を知らないはずもなく、大学時代からよく彼の小説は目にしていた。
営業担当が手渡した作品は雪深い北国が舞台になっていて、そこで繰り広げられる愛憎劇は内容こそ暗いのだけれど、読者の心にイメージが直接入り込んで来るような風景描写。
自由で、それでいて独特な、比喩表現の一つである隠喩の取り入れ方がとても綺麗で、いつも私をその世界へとのめり込ませた。
この人が書いてるの...?
もう一度彼を見ると、微笑んで話しているんだけれど、どこか目は笑っていないような。
それでいて全身には何とも言いようがない凄みがあって、作家の先生といえば、気弱そうな人か、逆に神経質に怒りそうな人か。
その2択だと思っていたけれど、彼はもっと彼自身に魅了が溢れていて、作家というより表舞台の華やかな世界にいる人に見えた。
「妻が喜びます、ありがとうございます」
そう何度もお辞儀をし、歩みを進めた営業担当の後ろに私はついていった。
「あんな感じの人だと思いませんでした」
「ああ、彼な。特殊なタイプだよな」
「はい、なんでしょうか…あの人だけ発してる空気が違うというか…」
「お前、初めての大先生にビビったんだろ?」
「そう…なんですかね…?なんというか…彼に飲み込まれそうというか…」
「ああ。なんか、わかる気がするな。俺の妻も飲み込まれてるしな」
そう笑った。
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