東京

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今までに電子書籍化された分の市場調査で、彼は女性読者の比率が高い作家であることはわかっていた。 けれど、このサイン会を開催した事によって、彼の狂信者とも言える女性読者の存在が浮き彫りになったのだ。 彼との時間を長く取りたいために何十冊と購入する人や、全部の作品を初版本で揃え、舞台にした国の全てに行った人はまだ可愛いもので。 サインを書き終わっても彼の前から頑なに動こうとしない女性や、くたくたになるほどに読み込まれた小説に真っ黒になるほど文字を書き入れ、自分なりの考察があっているか答え合わせをして欲しいと頼み込む女性まで現れた。 この怖いほどに熱狂的な読者層の存在は出版社側も把握しきれておらず、警戒するに越した事はないだろうと、念のため下にいた警備員を会場に呼び戻し、彼へのプレゼントは書店のイベント担当が事前に受け取るなどの対応を取ることにした。 作家は多くいれど、ここまでの固執した女性読者層を彼だけが構築出来ているのは、きっと彼の作品に含まれる性的な表現、そしてどの主人公までもが女性に慣れた生き方で描かれている事が影響しているのだと思う。 彼の書く主人公には、彼と同じくどこか色気がある。 それはどの作品にも共通していて、10代の青年を書いていても、女にモテているとかそんな事ではなく、成熟した男性にはない色気があるのだ。 その色気に女性読者達は惹かれ、より一層物語への感情移入を深めていく。 そして物語を書いた彼を実際に目にした読者たちは、彼に纏わりついている色気が本の中で読み取ったものと相違が無いことに驚き、彼を一目見ただけで陶酔したような目をする。 まるで主人公があたかも本の世界から飛び出して、目の前に実在しているかのように。 そんな錯覚を引き起こすのは本来ならあり得ない事だけれど、そう思い込んでしまうくらい彼の書く主人公と、彼自身には同じ色気が纏わりついているから無理もない。 私は彼女たちの陶酔した目を見て "男の色気は、抱いた女の数だ" という浅田先生の一文を思い出していた。 彼の色気には、数えきれない女との夜が含まれている。 その香りはある種の花の匂いが昆虫を呼び寄せるように女に届き、欲望を目覚めさせる。 彼のものになりたいと、彼の全てを知りたいと、そう思ってしまうほど抗うことの出来ない感情を呼び覚ます香りが、そこにはある。 私も彼女たち同様、彼独特の世界観を愛好している1人だけれど、色気に当たったという面でも何ら変わりはないなとサイン会を見守っていた。
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