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銀座の三越前にある老舗の鰻料理屋で始まった打ち上げの途中携帯を見ると、今日お世話になった書店の担当者から着信があり、急いで私は手帳と共に店の外へ出た。
店の前の大通りは車通りが多く騒がしくて、店の横に伸びた路地へと入ると折り返しの連絡を入れた。
今日のお礼も兼ねて集計結果や、納品数などを膝の上に乗せた手帳に書き込んでいると、私の横に誰かが立つのが見えた。
電話をしながら見上げれば、そこに立っていたのは彼で。
話してていいよと目配せをすると、ポケットからタバコの箱を取り出した。
彼は頭の後ろを壁につけて、東京のくすんだ空へと白い煙を吐いていく。
彼の吐く煙が空へと立ち上るのを見ながら電話を切ると、一応辺りを見渡した。
「随分と上手く隠してるな」
「そう?」
「感心したよ」
「信用してるって言ってたくせに」
「いや、君は顔に出やすい子だから」
「あなたと2人で話さないようにしてれば平気」
私が手帳を畳み先に戻ってると伝えると、いきなり私の進路を塞ぐように壁に手をついた。
「このあとは?」
「え?」
いきなりの質問に私が間を置くと、彼はおもむろに私の耳元に近づいて
「君はこのまま眠れそうかって聞いてる」と囁いた。
「だめ…少し離れて」
「別に誰も見てないよ」
私は念の為、もう一度路地を見回して
「行きたいけど、明日わたし朝から会議なの」と彼に伝えた。
「部屋から行けばいいだろ?」
「でも今、電話で発注してた冊数が売り切れちゃったから予約の発送分が足りないって。午前発送だから会議の前に納品手続きしないといけないし、それだと始発に乗らないとダメだから明日の夜行ってもいい?」
彼は私の言葉に少し微笑んで壁に手をつけたまま私の首元へ顔を移動させると、小さく私の首を喰んだ。
「...んっ、、まって何してるの...」
私は咄嗟に右手で喰まれたところを触った。
「大丈夫。跡はついてないよ」
「そうじゃなくて…誰かに見られたら困るでしょう...」
「仕事モードの君は、いつになく真面目だね」
彼は少し笑って私の顔を見つめたあと、ゆっくりと唇に視線を落とした。
私がキスをされると身構えると、唇が触れるか触れないかの距離で一度止まり、下唇にだけ軽く体温を寄せた。
優しくただ触れただけのような、子供がするみたいなキス。
道で交わすにはあまりにも丁寧な口づけが、性欲という本能を表に出した。
…ほんとに、狡い人...
こんなキスをされたら、もっとして欲しいって欲がでる...
彼はもう一度私の目に視線を戻すと、小さく微笑んで「もう大丈夫だな」と言った。
「その顔をしたら、君はもう家に帰るなんて言わないよ」
そう言いほとんど吸ってないタバコを最後に深く吸い込むと、私を置いて店に戻ってしまった。
打ち上げが終わり別々のタクシーに乗り込んで、家までの行き先を告げる。
1個目の信号でタクシーが停まり、車が走り出した時、私は運転手に告げた。
「...すみません、逆方向なんですけど、やっぱり六本木方面へ向かってくれませんか?」
部屋には先に帰った彼が待っていて、私を見た瞬間に手首をひいた。
私は彼の特別で。
外で並んでいる熱狂的なファンに会う事より、ヒットを喜び酒を酌み交わしたい編集者たちよりも、彼は私を求めていて。
その事実は私を存在させるのに十分で、なんだか奇妙に幸せだったんだ。
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