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「楽しんでるみたいね」
社員証をかざし出版社から出た私は、彼に電話をかけた。
彼は8月の半ばからあの島でプロットを書いた作品を書き上げるため、クロアチアにあるスプリトという都市に滞在していた。
執筆中は邪魔にならないようなるべく電話はかけないと決めていたので、彼の声を聞いたのは2週間ぶりだった。
「気候はいいんだけどね。魚介とオリーブにいい加減飽きてるよ」
「そう?でもそこが気に入ってるんでしょ」
「なんでそう思う?」
「だって今日、200枚も原稿が送られてきたってあなたの担当が編集部で騒いでたから。調子がいいんだろうなと思って」
スプリトは古代ローマ帝国の面影を残す宮殿跡がそのまま都市になった街で、沿岸で採れた葡萄を使ったワインとオリーブが有名なところだそうだ。
聞いてるだけでのんびりとした雰囲気と鮮やかな夏のヨーロッパの景色が浮かんで、私も連れて行ってほしいと伝えたかったけれど、彼の執筆スタイルは一人で篭り切るのが基本なので私は9500km離れた都会のコンクリートジャングルで、電波の向こうにいる彼を感じた。
作家では半々ぐらいだろうか。
世界中に妻を帯同させて書き上げる作家もいれば、彼のように1人でないと書けないという作家もいる。
欲を言えば彼に、私を連れて行って書けるか試してほしいものだった。
別に私は書いている横に四六時中くっついて離れなかったりしないし、彼をホテルに残して1日中外にいたって構わなかった。
そして食事の時と眠る時だけ、彼の隣に居られれば全然構わなかったのに、強くはそう言えなかった。
彼の執筆は趣味じゃない。
仕事なのだ。
そんなワガママ女みたいな事は言うべきじゃないと言葉をしまった。
彼は私の気持ちをよそに「別にここが気に入ってるから書けてる訳じゃないけど、部屋のバルコニーからレンガ屋根の旧市街とアドリア海が見渡せてさ。その景色を見ながら吸うタバコが本当に美味いんだ」と楽しそうに笑った。
その時、正面口から知り合いの編集者が出てくるのが見えて、私は意味もなく右手に持っていたスマホを左手に移しかえ送話口を手で覆うと、地下鉄の駅へと歩き出した。
「ねぇ、映画化断ったって本当?」
「ああ。先週断りの連絡を入れた」
「なんで?配給会社から話が来たって編集長も喜んでたのに」
「君も知ってるだろ?どれだけ観客が入ろうと興収をあげようと、作家の懐になんて最初の原稿使用料以外なにも入らないんだ。それなのにどの俳優がいいとか、打合せだ、台本はどうだ、挙句の果てに撮影現場にまで来て助言が欲しいなんて言われて、僕がそんな面倒なことに頷くわけないだろ」
「でも映画がヒットすれば売上だって増えるし、勿体無いんじゃない?」
「本を映画化して良かった例なんて殆どないよ。くだらないものを作られたらこの先も駄作のイメージがつく。そんなリスクに賭けるつもりはないんだ」
彼の意志は全然揺らぎそうになくて。
朝から編集長がどうにか彼を説得できないかと頭を悩ませていたけれど、この話は白紙だなと晴れ上がった夏の空を見上げた。
「今回のやつは?上下巻にするの?」
「そうだね。30万字が目安だから分けるつもりではいるよ」
「なら、今の進行度合いは4割くらい?」
「まぁ文字数的にはそうだけど、書き終えたあとで後半を全部書き直した事もあるから。まだまだ序盤ってとこかな」
「そう...あの、」
私はどのくらいで帰ってくる?と聞こうとして、少しの間を置いた。
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