東京

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まだ街ゆく人がコートを羽織っていた今年の初め。 ホテルの部屋で万年筆を回し続けていた彼が今、担当も驚くほど順調に書き進めているというのに、早く帰ってきて欲しいなんて気持ちを伝えていいのだろうか。 私は彼のスランプを取り除ける唯一の人間で、そして本の世界に生きている編集者で、彼のファンでもある。 だからこそ彼を急かす権利なんて私にはないなと口をつぐんだ。 「どうした?」 「ううん、いい。じゃあね」 「なんだよ。言いたい事があるなら言いな」 「言いたい事っていうか、その...」 「なに?」 「...あなたに会いたいなって...思っただけ」 会いたいって言葉を口にした時。 本音を言わせてもらえば、あなたが海外に行って籠りきっちゃうのは嫌だし、連絡もそっちからしてほしいし、兎に角はやく帰ってきてよ。くらい続けてしまいそうになった。 けれど "あなたに会いたい" くらいの可愛らしい言い回しでやめておいたのは、いかにも大人の選択で良かったと思う。 彼はその言葉に短く笑って、 「ほんとに君は、僕がそばにいないのが嫌なんだね」と言った。 「あなたは私と会えなくても平気だろうけど、私は寂しいの」 「寂しがる必要なんかないだろ?僕は君と心まで離してるつもりはないよ」 そう言った電話の向こうで、優雅な船の汽笛が聞こえた。 それと同時にこっちでは、いきなり停まったタクシーに怒りをぶつけるトラックのクラクションが交差点に鳴り響いた。 横断歩道を渡り、地下鉄の駅が見えてきた私は「そろそろ行かなきゃ。声が聞けてよかった。執筆頑張って」と電話を切ってスマホをポケットにしまった。 今週末は何をしよう。来週末も。 彼が帰ってくるまで何をして過ごそう。 コンクリートの床をジリジリと午後の陽が焼く中、私は暑さから逃げるように地下鉄の階段を下った。 . . .
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