東京

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. . . 彼との甘さを秘めた日々は、本当に幸せで。 彼がいない時間を長く過ごしたあとだと、余計に一緒にいられる時の大切さが身に染みた。 週末に泊まり込み彼の隣で目覚めれば、寝ていた時間が勿体なかったと後悔の念が私を襲うほどだった。 けれどそんな満たされる日々は、年明けまでしか続かなかった。 彼の執筆活動が落ち着いたタイミングで、今度はやたら奥さんがこの国に帰って来るようになったのだ。 奥さんのことを聞くのは嫌なのであまり詳しく聞かなかったけれど、彼曰く奥さんがこっちで新しく本を出すらしく、それの打ち合わせや何やらでよく戻ってきているとの事だった。 最初はせいぜい1ヶ月くらいで帰ったと連絡が来るものだと思ってたのに、2ヶ月経っても奥さんはこの国に居続けた。 痺れを切らした私が彼に電話をするよう連絡を入れようかと思ったけれど、私がどれだけ催促したところで奥さんは早く帰ったりしないし、何の状況も変わらないと携帯を置いた。 見えない事を想像するのは嫌なので、なるべく奥さんの事は考えないように生活した。 大丈夫。私は愛されてる。 あの島で感じた事を忘れちゃいけない。 私は奥さんよりも後に出逢ってしまっただけ。 彼に出会うタイミングが少し、遅かっただけ。 私たちの愛に、そんな時間軸の差なんてもう関係ないんでしょ? 今の日常に、あの感覚を持って来よう。 愛してる人と心のままに過ごしたあの島での出来事を、あの島だけの特別なものにしてはいけない。 悲しみは、あの島に置いてきたんだ。 私の悲しみは焼けるような夕陽が真っ黒な海に連れ去って、涙は雨が代わりに流してくれたんだ。 悲しみなんて感じるべきじゃない。 私はそう言い聞かせて、頭の中にある悲しみをペンキでベタベタと塗った。 ただ悲しみだけを感じないようにするのは人間至難の業で。 悲しみという深く重い気持ちを感じないようにするには、感情に過敏に反応しないこと。それが一番有効だった。 満員電車で何度も押してくるサラリーマンにも嫌だなと思う事すらやめたし、編集長が日々頑張っているからと食事を奢ってくれた時も、喜びすぎると心が呼び覚まされそうで、必死に感情を抑えた。 連絡の来ない携帯を見ても何も思わないように自分をコントロールし続けたせいか、彼から連絡が来ず3ヶ月が過ぎ、千鳥ヶ淵に桜が咲いたころ、暇つぶしで観た昔から大好きで何回も観てきた映画が全然面白く感じなかった。 何度見ても笑えたし、最後は感動して涙が出たはずなのに、何も思わなかった。 出版社のそばにある、おばあちゃんがやってる小さな洋食店で大好きだったビーフシチューのランチを食べている午後も、どこか今までと違った。 美味しいはずなのに、今までのように食べるとおばあちゃんの笑顔が浮かぶような心が温かくなる感じがなかった。 味は変わってないはずだし、私の捉え方なんだろう。 これじゃあ、まるで万年筆の重さと同じだ。 人は考え方1つで感じ方が全く変わってしまう。 とりあえず、先のことを考えるのはやめよう。 仕事が終わったら家に帰って、湯船をはって、着替えたら小説を読んで、布団に入ろう。 今日のことを考えよう、いつもそういうところに舞い戻った。 . . .
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