東京

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. . . イチョウの黄色が東京の道端にも色を添え出した秋。 私は駅のホームで意識を失い倒れるという、ドラマの1シーンみたいな事をしてしまった。 週明けから4日連続で39度台を行ったり来たりしていたけれど、仕事が溜まりすぎてて休む事も出来ず、ただの風邪だと思い込んで働いていたのに実際には肺炎にまで拗らせていたのだ。  私に記憶はないけれど、きっと朝の通勤ラッシュで溢れかえるホームに女が1人盛大に倒れたのだから、ざわめきも凄かっただろうし、どこかの誰かが119番通報し救急隊員が来るまでそばにいてくださったんだろう。 そしてその光景は不特定多数の人のSNSに登場したのではないだろうかと思うと、心底恥ずかしくて嫌になった。 目が覚めた私は体のだるさや、繋がれた点滴よりも倒れた時に打ったであろう額の傷が痛くて、私は一体どんな顔になっているのだろう...もし一生残る傷がついていたら...とそれが怖くてナースコールを押した。 親切な看護師さんが手鏡を持って来てくれて、大した傷じゃない事に安心すると親よりも先に彼に電話をかけた。 「もしもし?今、大丈夫?」 「平気だよ。どうした?」 「あのね、入院する事になって」 「どうして」 「駅のホームで倒れたの」 「原因は?」 「肺炎だって。3日して熱が下がれば退院出来るからまた連絡する」 「どこの病院」 「来るの?」 「行くよ。部屋を教えて」 本当に来るのだろうかと半信半疑だったのだけれど、彼は本当に病室にやってきた。 病院特有の妙に清潔感のある香り、アルコール綿や真っ白な薄っぺらいシーツ、トレーに乗せられた給食のような味気ないお皿。 カードを挿さないと見られない変な角度のテレビに、決められた速度で落ちてくる点滴。 その全てに何も血が通っていない気がする。 そんなまっさらの無機質の塊のような場所に彼がノックもせず入ってきた瞬間。 ようやく色の付いた、人間らしい癖のあるものが入ってきたなと、妙に安心した。 彼は私を見ると 「弱ってる君に何がいいかと思って」 と椅子に腰掛けた。 「まさか、あなたの書いた本を持ってきたんじゃないでしょ?」 「ああ。その手もあったけど、生憎(あいにく)持ち合わせてなくてね」 「それで?何を持ってきたの?」 「当ててごらん」 「お花じゃないし、食べ物持ってる感じもないし、わからない。なに?」 すると彼はポケットから、浅田先生の書いた機内誌のコラムをまとめた単行本を手渡した。 「新しいやつ、出てたの?」 「僕の次に好きだろ?」 「あなたよりも好きかも」 その言葉にふっと笑うと、私の前髪を指でそっとわけた。 「痛そうだね。可哀想に」 私の傷を優しそうに見る目。 こんなどっかの角にぶつけた傷よりも、あなたに出逢った時の心の方がよっぽど痛かったのに。と言いそうになったけれど、単純に彼がわたしの好きなものをちゃんと把握していたことが嬉しくて、言葉にはせず単行本を握った。 「この病室、綺麗すぎて気が狂いそうなの。これで頭の中だけでも外に行ける。ありがとう」 「なぁ、ただの風邪だったんだろ?」 「そう、最初はね。免疫力が下がってたんだろうって」 彼はふーんとばかりに冷蔵庫の中から水を取り出して「病院の匂いを嗅ぎながら水なんて飲んでると、こっちまで具合が悪い気がしてくるな」と笑った。 「そういえばね。私、言ってなかったけど2週間前から異動になったの」 「なんで突然」 「私のせいで、気が狂った男の子がいて」 「君のせいで?」 「そう、私と寝たくておかしくなっちゃったの」 彼はペットボトルの蓋を閉めてベッドの上の机に置くと、1日3回計られる私の体温がつけられた紙を手に取って「ああ、それはわかるな」とだけ興味が無さそうに言った。 「男として同情する?」 「そうだね。なんでもっと早く言わなかった?」 「あなたに直接言ってあげたくて。優越感が満たされるかなって」 彼は紙から視線を私に戻して、小さく笑った。 「僕は抱いてるけどって?」 「そう。バカみたい?」 「まあ、その男より僕がいいのはわかってるから」 「可愛くない、ほんと」 「それで、その男に何をされたの?」 私が点滴に繋がれながら、おかしくなった新入社員の経緯を話したら 彼は面白そうに私の話を聞いて 「君を満たしてあげるのはその子には無理だろうな。あまりに言動も考え方も、全てが幼い」と私を見つめた。 「ねぇ私、あなたに捨てられたらどんな男と付き合えばいいの?あなたが基準になって考えたら、他の男のどこを見ればいいのかわからない」 「そんなこと考えなくていい。ずっとこうしてればいいんだよ。君1人くらい一生食べさせてあげるよ」 「衣食住まであなたに縋って生きろって言うの?」 「君が望むなら、僕は構わないって言ってるんだ」 私は考えた。 もしこのまま一生愛人として生きていき、何十年かした後で彼が倒れたとする。 連絡はきっと奥さんに行くだろうし、彼に意識が無ければ、彼が倒れた事を私は知る事すら出来ない。 となると私は、大丈夫?と心配した表情で見舞いに来て、手土産一つ手渡すことも出来ないし、病室の椅子に腰掛けてリンゴを剥いてあげることも出来ない。 そして死にでもすれば、お葬式で一番前の席に座り、参列者にお辞儀をしながら生前はお世話になりましたなんて、涙を拭う事も出来ない。 なぜならそのどちらの席も、奥さんの為に用意された椅子だからだ。 どれだけ彼と長くいても、彼が愛しているのが私だとしても、私にはこの先の人生で、それらの椅子に座る権利を許されていないのだと思うと、愛人を続けていくというのはそろそろ限界で、やはり出会った頃に思ったように奥さんという立場にして貰えないとこの先の人生が怖かった。 新聞やニュースで彼に起こった出来事を知り、彼の訃報が流れるテロップを見て、彼が支払っていた部屋で一人、テレビ画面に涙するなんて考えただけで、ぞっとした。 彼と出会って初めて。 好きだから結婚してほしいとかじゃない。 私だけのものにしたいから、結婚して欲しいでもない。 私は将来に対する明白な怖さを感じて、私と結婚してほしいと思った。 「ねぇ、まだ奥さんと別れる気はないの?」 「久しぶりだね。その話題になるの」 「だって私。一生あなたの2番で生きてくなんて、そんな人生ってどうなんだろう」 「2番って考えるからだろうな。僕は2番の女のためにリスクを犯して此処に来たりしないよ」 彼は立ち上がると、わたしの額に手をかざした。 「熱いね。ゆっくり休みな」 「もう帰るの?まだいてよ」 私がその手を握ると「僕の代わりに浅田先生を置いてくから」そう本に目配せをして、彼は病室をあとにした。 それから徐々に熱は下がって、主治医の言った通り3日目の朝。 無機質な部屋で、予定通り退院が告げられた。 そして過労が原因だろうから。と休みを取る事をしつこいほど看護師さんに念押しされ、私は病院を後にした。 . . .
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